ウォーレン・リビングストン・クロマティ(Warren Livingston Cromartie、1953年9月29日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミビーチ出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。左投左打。現在は読売ジャイアンツのアドバイザーを務める。愛称は「クロウ」。, MLBドラフトでは高校時代から数えて計4度指名されているが、いずれもプロ入りには至らなかった。マイアミ・デイド短期大学(英語版)在学時の1972年には第1回日米大学野球選手権大会に出場した[1]。, 1973年6月の二次ドラフト1巡目(全体5位)でモントリオール・エクスポズから指名され、プロ入り。メジャー3年目の1977年頃からレギュラーに定着した。, 1983年のシーズンオフ時にFAとなって同年12月29日に読売ジャイアンツへ移籍。, 1984年に35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。, 1986年には打率.363を記録したが、この年は阪神のランディ・バースが日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者を獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。, 1988年、ヤクルトスワローズとの開幕戦で巨人の選手では東京ドーム第1号となるホームランを打つ。しばらくは不振の原辰徳に代わり4番を任されるなど好調を維持していたが、6月13日の阪神タイガース戦で久保康生から指に死球を受けて骨折してしまったことで、残りのシーズンを棒に振った。チームの最終戦の10月4日の横浜大洋ホエールズ戦には、尊敬する王貞治監督のラストゲームを見届ける為にベンチ入りしていたが、試合には出場しなかった。, 1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し[2]、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制であったため規定打席数は試合数×3.1の403打席数であった)に到達した時点で打率4割を超えていた。最終的な打率は.378まで下がり、4割打者誕生はならなかったが、首位打者を獲得した。96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功の89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人の球団歴代最高打率である。首位打者に加え、.449で最高出塁率の二冠のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。, シーズン打率.360以上を2回(1986年、1989年)記録している。これは他にイチロー(1994年、2000年)と落合博満(1985年、1986年)しか達成していない記録である。, 1990年は開幕から低調で7月まで打率.252 5本塁打という成績ながらチームが史上最速ペースで優勝を飾るなど首位を独走しており、加えてクロマティのファン人気が高いこともあってオールスターにファン投票で選出された。8月以降は打率.390(136打数53安打)9本塁打で復調の兆しが見えたがシーズン終了後の1991年1月16日に退団が発表された。直後に「さらばサムライ野球」を出版する。中畑清が王貞治監督のことを陰で「ワン公」と呼んでいたとか、篠塚和典は苦手投手の先発が予想されると仮病で休むなど、暴露本の様相を呈していたため話題となった。, 1991年3月1日、カンザスシティ・ロイヤルズのキャンプに参加しメジャー復帰するも、8月20日に引退が報じられた。, 2005年には、独立リーグのゴールデンベースボールリーグに参加する「ジャパン・サムライ・ベアーズ」初代監督に就任したが、ファンへの暴言や度重なる退場を理由に解雇された。, 2007年6月1日、プロレスラーとしてデビューすることを、プロレスイベント「ハッスル」を主催するハッスルエンターテインメントが発表。6月17日に「ハッスル・エイド2007」(さいたまスーパーアリーナ)でタイガー・ジェット・シンと対戦し勝利を飾った。この試合ではかつて試合中に殴打した宮下昌己が来場し、クロマティを応援した。, その後、かつて在籍したエクスポズのあったモントリオールにMLB球団を復活させるプロジェクトの代表を務めていた[3]。2018年4月にヒストリーチャンネルの日本法人と正社員としての雇用契約を結び、同チャンネルの東京駐在特派員として番組に出演することとなった[4]。, 2019年のNPBレギュラーシーズン(8月上旬)からは、現役時代に在籍していた読売ジャイアンツの一軍公式戦に随時帯同している。同球団の選手時代にクリーンアップを組んでいた原監督からの要請による帯同で、コーチとしての契約には至っていないが、帯同中には「臨時打撃コーチ」に準ずる役割で試合前練習の打撃指導を担っている[5]。実際にはユニフォームを着用せず、同年中は指導に対する報酬も発生しない「ゲスト」扱いで帯同していたが、12月20日に2020年シーズンから「アドバイザー」という肩書で就任する事が発表され、その後正式に契約した[6]。, 中距離打者であったが、広角に打ち分けるシュアな打撃は当時の監督であった王貞治からも「三割は確実にとれる」と絶賛され、後述した1986年の頭部へ死球を受けた翌日の試合で代打出場をした際には見事な流し打ちの満塁本塁打を放つなど、勝負強さが持ち味でもあった。極端なクラウチングスタイルのバッティングフォームが大きな特徴であったが、日本でのキャリアを重ねたキャリア後期には通常のフォームに変化している。, 常に風船ガムを噛み、ぷうっとふくらませて破裂させ、ひょうきんな印象を与えた。自ら打点を出した後に守備につく際、外野観客席の巨人ファンと共に万歳三唱するパフォーマンスを見せ、選手生活晩年には「バンザイコール」はおなじみのものとなった。テキサスヒットを打って出塁した際の塁上でしばしば、「ココが違う」とばかりに自分の頭部を指さすパフォーマンスを見せ、打たれたバッテリーの怒りを買った。, 広島と優勝を争っていた1986年10月2日のヤクルト戦(神宮球場)で、高野光から頭部に死球を受けて倒れ慶應義塾大学病院へ運ばれた。しかし病院を抜け出し、翌日の同ヤクルト戦にベンチ入りする。尾花高夫から代打満塁ホームランを放ち、ホームに到達した際泣きながら監督の王貞治[8]と抱き合った。ただしこの年の巨人は最終的に優勝を逃している。, 1987年6月11日の対中日ドラゴンズ戦(熊本市・藤崎台県営野球場)で、投手の宮下昌己から背中に死球を受けた際、帽子を取って謝るようジェスチャーも交えて要求したものの、宮下が応じなかったため、マウンド上の宮下に駆け寄るやいなやその顔面に綺麗に右ストレートを入れる等暴行を加えたことにより、両軍入り乱れての大乱闘となった(クロマティは退場処分)。翌日のスポーツ新聞の一面を飾るなど有名な乱闘劇となった。, クロマティと宮下はその後も数回程度会う機会はあったものの、会話をすることはなかった。, しかし引退後のその後、2007年6月17日に開催されたプロレス興行『ハッスル』にクロマティが参戦。上述の一件の縁から宮下も来場し、クロマティを応援した。, 2013年1月21日に日本テレビ系で放送された「深イイ話&しゃべくり007 合体2時間SP」にゲスト出演。ここで宮下に会って謝罪したいとの意向を示し、番組内で宮下との再会が実現。お互いに笑顔で握手を交わし、四半世紀の時を経て"和解"となった[9]。, 2015年には3月14日にTBS系で放送された炎の体育会TVスペシャルの企画で「マスク・ド・ピッチャー」に扮した宮下と1打席勝負を行った。, 1990年6月2日の対広島東洋カープ戦で、二死二塁の場面で、金石昭人の敬遠を図った投球を1ストライク1ボールのカウントから右中間に打ち外野手・西田真二の頭上を越えるサヨナラ安打にした[10]。, 現役終盤は加齢による衰えもあって、狭い守備範囲と緩慢な返球が問題視され、しばしばメディアにもとりあげられた。1987年の日本シリーズ第6戦では、2回裏にフライを捕球した後の返球が逸れ、二塁からタッチアップした清原和博のホームインを許している。また8回裏の秋山幸二のセンター前ヒットではヒットエンドランはかかっていなかったにもかかわらず、守備位置が深かったことや返球が緩かったこと、巨人の遊撃手は全員このような場面での中継プレーで打者走者の方を見るクセがあることも重なり、一塁走者の辻発彦をホームインさせている[11]。また、1989年にも、有田修三の投げた二塁への悪送球を緩慢にバックアップしていたら一塁走者の屋鋪要が一気にホームインした、というプレーがあった。, 1989年の日本シリーズでも、打球判断を誤る記録に残らないミスを数回犯しており、実況アナウンサーが「今のは緩慢な守備でした」と話している[12]。, 日本ではほとんどセンターを守っていたが、1000試合以上出場したメジャーリーグでは、一度もセンターでの起用はなかった(レフトが最多)。, 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.66~67, 1981年から1988年まではNPB打撃タイトル1989年から2000年まではセ・リーグ特別賞2000年限りで廃止, http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130113-OHT1T00006.htm, http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_07/g2005071609.html, 【クロマティ】日本の麺類への愛を語る!!【Cro ‘N Tokyo】 - YouTube, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ウォーレン・クロマティ&oldid=80110641, 100本塁打:1986年9月26日、対中日ドラゴンズ24回戦(後楽園球場)、4回裏に小松辰雄から左中間越2ラン ※史上146人目, 150本塁打:1989年7月19日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、5回表に.

 

対巨人戦で延長戦で巨人の投手槙原がなげた外角の敬遠球をこれまた引っ張り三遊間を破ってサヨナラタイムリーを放っています。, 新庄クラスの選手はたくさんいますが、あの破天荒ぶりは新庄だけでしょう。 2020 All Rights Reserved.

サヨナラ満塁ホームランを放ったのですが、勢い余って2塁ベース付近で前の走者を抜いてしまった為、

敬遠球を打ち返し、サヨナラ勝利につなげた選手がいます。先ず1人目は巨人に在籍し巨人史上最強助っ人と言われたウォーレンクロマティ。そして当時阪神に在籍していた破天荒男・新庄剛志です。他にも1962年に長嶋茂雄が敬遠を打って逆転タイムリーヒット。 記録はサヨナラヒットになりました。本当に破天荒な男でした。, 1962年に長嶋茂雄が敬遠を打って逆転タイムリーヒット。

ウォーレン・リビングストン・クロマティ(Warren Livingston Cromartie、1953年 9月29日 - )は、アメリカ合衆国 フロリダ州 マイアミビーチ出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。 左投左打。現在は読売ジャイアンツのアドバイザーを務める。 愛称は「クロウ 通知の解除方法については、こちらの記事をご覧ください。. その為幾ら相性の良い打者でも敬遠する時はします。, 先ず1人目は巨人に在籍し巨人史上最強助っ人と言われたウォーレンクロマティ。彼はファンからも愛され、また彼自身もファンを大切にしていました。, 1990年6月2日の対広島東洋カープ戦。東京ドームが開業して間もない頃で、丁度夏休みの時期です。広島戦での出来事でした。, 通常では4番との勝負を避けたい所ですが、クロマティの調子が良いので4番の原辰徳勝負に広島ベンチは指示しました。, 当然敬遠してツーアウト1塁2塁で原辰徳勝負誰もがそう思っていた瞬間、中途半端に外した球にクロマティが反応。, 打球はライトの頭上をこえ、サヨナラタイムリーヒットとなり、いまも伝説として語り継がれています。, そしてもう1人敬遠球を打ち返した選手は、当時阪神に在籍していた破天荒男・新庄剛志。 日本プロ野球、伝説に残る選手列伝~長嶋茂雄から大谷翔平まで , プロ野球界に語り継がれる伝説の選手を紹介しています。ミスタープロ野球・長嶋茂雄から、最新の大谷翔平まで。プロ野球選手、皆おもしろい!, 2015/12/25

ウォーレン・クロマティ現在はモントリオール球団誘致活動の中心に!思い出の地で奔走する姿に好感度大!, ウォーレン・クロマティは読売ジャイアンツ史上最強の助っ人だった!劇的な代打満塁ホームランなどその成績は屈指!, ウォーレン・クロマティ広島戦で敬遠球をサヨナラ打に!中日戦で投手を殴り伝説的な大乱闘を繰り広げた!, ウォーレン・クロマティ「バンザイコール」など陽気なキャラクターで愛される存在に!挑発行為や緩慢な守備は悪評の一因か?, ウォーレン・クロマティがバッティングセンター参戦!ホームラン達成で「バンザイコール」なるか?, DKBは韓国発セルフプロデュース9人組アイドル!公式ファンクラブ開設で目が離せない!, 大和田獏の娘は誰?息子と誤解されがちな俳優との関係!嫁や兄との共演がウケていた!出身大学もスゴい, 仲村トオルの嫁やモデルデビューした娘とは?刑事ドラマだけじゃない演技力!身長や体重は?, 戸田恵梨香はムロツヨシとの結婚を勧められていた?笑顔の可愛さがアップ?佐川のCMが美人すぎ!, 広瀬香美はYouTuberとして大人気!天才と言われた子供時代や元旦那さんも紹介!, 映画「レッド・スパロー」の原作小説は?ジェニファー・ローレンス他、注目のキャストは?. 後に大リーグに挑戦しそれなりに新庄曰く、, そして帰国後日本ハムに在籍しますが、新庄人気は抜群のものがありました。 現在は、カナダのモントリオールへの球団誘致運動のリーダー的な存在として活動しているウォーレン・クロマティ。モントリオールといえば、もともとは、モントリオール・エクスポズの本拠地でした。それは、ウォーレン・クロマティがメジャーリーグ入りした時、最初に入団した思い出の球団です。, しかし、球団は、2004年にワシントンへ移転し、地元ファンをとても落胆させたという経緯がありました。そのため、ウォーレン・クロマティらが中心となって、モントリオールへの球団誘致を推進しているとのこと。マンフレッドMLBコミッショナーの、「メジャーリーグは、国際化を前向きに検討すべき」という発言もあって、機運は盛り上がりつつある今、モントリオールでは、天然芝の球場を新設する計画も進行中といわれています。, 日本の事例でも分かる通り、球団誘致の実現は極めて困難です。しかし、新球場を構えるプランが用意されているとは、かなり具体的に進行していることがうかがえます。どんな形で実現するかはふたを開けてみないと分かりませんが、かつての思い出の地への球団誘致に奔走するウォーレン・クロマティの活動ぶりは好感度大ですね。, ウォーレン・クロマティは、1953年9月29日生まれの63歳。アメリカ・フロリダ州マイアミビーチ出身で、本名はウォーレン・リビングストン・クロマティといいます。愛称は、「クロウ」。1972年の第1回日米大学野球へ出場した経歴を持ち、1974年、マイアミ・デイド短大から、メジャーリーグのモントリオール・エクスポズ入り。4年目頃からレギュラー定着を果たしました。1983年シーズンオフに、FAで読売ジャイアンツ入りしたウォーレン・クロマティは、王貞治新監督の元で主力として期待され、1年目に35本塁打をマーク。7年にわたって主力打者としてプレーし、劇的な一打でファンを沸かせました。, 1989年には打率3割7分8厘で、首位打者のタイトルを獲得しているウォーレン・クロマティ。チーム日本一奪回の立役者となるなど、彼の貢献度は極めて高く、その陽気なキャラクターもあって、ファンから愛される存在でした。年齢による衰えもあり、1990年限りで巨人を退団した後は、1991年にカンザスシティ・ロイヤルズで、メジャーリーグ復帰を果たしますが、1年で引退。その後の活動は、ラジオDJや、バンド、プロレス参戦など多岐にわたり、独立リーグ監督も務めました。, ウォーレン・クロマティは、読売ジャイアンツ史上最強の助っ人外国人として今も記憶に残る存在です。巨人在籍時代の7年間で残した通算成績は、779試合出場2961打数951安打、打率3割2分1厘、本塁打171本、558打点。歴代巨人の助っ人選手屈指の数字といえます。, 何といっても、ウォーレン・クロマティの魅力は、ここ一番の勝負どころで見せた劇的な一打。特に語り草となっているのが、1986年のシーズンの代打満塁ホームランです。広島カープとの息詰まる優勝争いとなったこのシーズン、10月2日の神宮球場でのヤクルトスワローズ戦で、ウォーレン・クロマティは、頭部に死球を受けて倒れ、病院へ運ばれました。苦痛に顔をゆがめるウォーレン・クロマティ。, チームは、主砲の原辰徳も手首骨折で戦線離脱していたため、中心打者を欠いたことで、読売ジャイアンツは優勝戦線から脱落かと思われた翌日の同カード。神宮のベンチには、なんと出場を絶望視されたウォーレン・クロマティの姿がありました!王貞治監督も試合前に、「勝負どころで代打で出てもらうよ」と起用予告。, その言葉通り、代打で登場したウォーレン・クロマティのバットは一閃し、劇的な満塁ホームランを放ちました。しかし、この年の読売ジャイアンツは、勝ち数で広島を上回ったものの、引き分け数が響いて、勝率で優勝を逃す結果に。ウォーレン・クロマティも、打率3割6分3厘と打ちまくったものの、阪神のランディ・バースが、打率3割8分9厘と前年を上回る大爆発を見せ、首位打者と、リーグ優勝のどちらにも手が届かない結果となりました。, 3年後となる1989年には、「4割を打ってユニフォームを脱ぐ」と宣言したウォーレン・クロマティは、従来の長打スタイルを改めて、ヒットメーカーに徹しています。規定打席に達した403打席の時点では、4割を超える打率を維持していたことから、「日本球界初の4割打者誕生か?」とマスコミも騒然。この時点で残り試合を休めば、4割打者として日本プロ野球に名を刻むこともできました。, しかし、この後も引き続いて試合に出場したウォーレン・クロマティは、最終的には4割には届かず、3割7分8厘の結果となりました。しかし、この打率は、現在でも、読売ジャイアンツ球団歴代最高として記録されています。, ウォーレン・クロマティの現役時代を語る上で欠かせない伝説的エピソードが2つあります。1つは、敬遠球をサヨナラ打にしたエピソード。そして、もう1つは、相手ピッチャーをぶん殴って大乱闘になったエピソードです。敬遠サヨナラ打が飛び出したのは、1990年6月2日の東京ドームでの広島東洋カープ戦でした。9回2アウトながらランナー二塁と、一打サヨナラの場面。ここで打席に入ったのが、この日3番に入ったウォーレン・クロマティです。, しかし、調子がいいウォーレン・クロマティと勝負を避けたい広島ベンチは、バッテリーに敬遠を指示。キャッチャーも立ち上がり、明らかに敬遠球……だったはずが、その球は、バットが届く中途半端なコースを辿りました。チャンスを見逃さなかったウォーレン・クロマティのひっぱたいた打球は、右中間へ。これが、外野手の頭上を破るサヨナラ打となりました。この最悪の結果に、広島バッテリーは、試合後にさんざん油を搾られたことでしょう。, 試合後のヒーローインタビューで、「敬遠球も狙って打っているのか?」という質問に、「時々ね」と答えたヒーロー、ウォーレン・クロマティ。1999年にも、阪神の新庄剛志が巨人戦で敬遠球をサヨナラ打を放って話題となりましたが、同じことを、ウォーレン・クロマティは9年前にやってのけていました。, 大乱闘に発展する騒動が発生したのは、1987年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場で行われた中日ドラゴンズ戦でした。この試合で、投手の宮下昌己から背中に死球を受けた際、ウォーレン・クロマティが、「帽子を取って謝れ」とジェスチャー交じりで要求したものの、宮下昌己は応じませんでした。そのため、激高したウォーレン・クロマティは、マウンドへ突進。宮下の顔面にパンチをお見舞いするなどの暴行に及びます。, これを引き金に、両チーム入り乱れての大乱闘へと発展しました。相手の中日も一歩も引かず、「燃える男」星野仙一が先頭に立ち大暴れ。なだめようとする王貞治に向けて、かみつきそうな剣幕で拳を突き出した場面は有名です。結局、ウォーレン・クロマティは退場処分を下されましたが、パンチをお見舞いした場面は、翌日のスポーツ紙のトップを派手に飾るなどしたこともあり、現在も伝説的な乱闘劇として語り草です。, 同日には、広島の「鉄人」衣笠祥雄が、通算2130試合連続出場という偉業を達成しながら、この乱闘騒ぎの影響で地味な扱いを受けたというおまけのエピソードも。この時に殴られた宮下昌己は、現在は、年商6000万円の米問屋へ転身。例のシーンを印刷した名刺を得意先に渡せば、「ああ、あの殴られた人か」と、ビジネスの話がスムースに進むそうです。, ウォーレン・クロマティは、その人懐っこい表情とあわせて、風船ガムをふくらませて破裂させたりする陽気なキャラクターでした。ファンへのサービス精神も旺盛で、しばしば観客席の巨人ファンとともに演じる「バンザイコール」はおなじみでしょう。, 現在も、ウォーレン・クロマティが巨人ファンから愛される存在であることは間違いありませんが、一方で、「日本球界をバカにしている」という悪評があるのも事実。特に知られるのが、出塁した際、「頭の出来が違うよ」とばかりに頭部を指さす姿がおなじみです。, これは、メジャーリーグでは挑発行為ととられ、次打席で頭部に報復球を食らわされかねないパフォーマンス。実際、日本球界でも、腹が煮えくり返る思いをしたバッテリーも多かったようです。代表的なのは、横浜大洋ホエールズのエースだった遠藤一彦。フォークボールでウォーレン・クロマティを三振に打ち取り、お返しとばかりに頭を指さしてみせました。ずば抜けた打席での集中力の反面、守備範囲の狭さと、返球の緩慢さも、ウォーレン・クロマティの悪評の一因といえます。, 時として投げやりにも見える返球は、たしかにいただけないものがありました。これが致命的となったのが、1987年の西武ライオンズとの日本シリーズ第6戦。2回裏にフライを捕球した後の内野への返球がそれで、ウォーレン・クロマティは、二塁からタッチアップした清原和博のホームインを許すという大失態を演じました。, さらには、8回裏に、秋山幸二のセンター前ヒットで一塁ランナーの辻発彦を生還させ、決定的な追加点を与えてしまいました。この試合の走塁は、相手チーム西武の徹底した研究が実を結んだといわれています。センターを守るウォーレン・クロマティの深い守備位置と、緩慢な返球、中継プレーに入るショートが打者走者へ目が行きがちなことなどを見抜き、見事にそのほころびを突いてみせました。ウォーレン・クロマティは、1989年の日本シリーズでも、記録に残らないものの守備のミスをたびたび演じています。, ウォーレン・クロマティが、日本のテレビ番組に久しぶりに登場しました。それが、10月から日曜午前に放送しているテレビ朝日系「帰れまサンデー」です。11月27日放送分では、「ザキヤマ」ことアンタッチャブル・山崎弘也がMCとなり、「バッティングセンターでホームランを打つまで帰れない!」第2弾を放送。, ゲストとして参戦したのが、読売ジャイアンツ史上最強の助っ人の呼び声も高いウォーレン・クロマティでした。この企画のために助っ人として登場したウォーレン・クロマティは、当時のチームメイト篠塚和典とコンビを組んで、ホームランに挑戦。, 舞台は、神奈川県・厚木市にある「本厚木バッティングセンター」で、一般人のホームラン確率は2500分の1。穴を通過するスーパーホームランになると、3333分の1です。打席に入れば、現役時代をほうふつとさせる雰囲気を醸し出したウォーレン・クロマティ。しかし、50球を消費しながら、意外にホームランは出ません。さすがは手ごわいバッティングセンターです。同じく助っ人として登場した篠塚和典は、15球にしてホームラン達成。, しかし、今回のノルマ達成には、もう1本のホームランを打たなければなりません。ウォーレン・クロマティに加えて、「神スイング」稲村亜美もバッティングに挑みますが、ホームランはならず。ここで助っ人タイムは終了となり、ウォーレン・クロマティと篠塚和典は、名残惜しくも退場となりました。, 残念ながら、今回は、現役時代さながらの「バンザイコール」とはならなかったウォーレン・クロマティ。しかし、またスポーツイベント等の機会に、その雄姿を見せてくれることでしょう。モントリオールへの球団誘致もぜひ成功させてほしいものですね。, 《斜め上からこんにちは》は芸能人や有名人の方々への応援メッセージをお伝えしているブログです。, 現在当サイトではpush通知を導入しております。

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ウォーレン・クロマティは、元読売ジャイアンツ(巨人)の助っ人外国人選手です。1980年代、読売ジャイアンツの中心打者として活躍したウォーレン・クロマティは、チャンスでの勝負強い打撃と、陽気なパフォーマンスで、今なお根強いファンの人気を誇ります。 ウォーレン・クロマティは、読売ジャイアンツ史上最強の助っ人外国人として今も記憶に残る存在です。巨人在籍時代の7年間で残した通算成績は、779試合出場2961打数951安打、打率3割2分1厘、本塁打171本、558打点。歴代巨人の助っ人選手屈指の数字といえます。 何といっても、ウォーレン・クロマ …   2019/05/07, 野球の世界では敬遠は付き物特にサヨナラのピンチの時などは塁を埋めて守り易くするのが常識です。 1981年に柏原純一(日ハム)が敬遠をホームランという記録もあるようです。, 川藤 幸三(かわとう こうぞう 1949年7月5日~) 川藤幸三は、ドラフト9位で阪神に入団。甲子園には2回出場実績があるものの、 プロ野球に入り1軍のレギュラー選手の体格に驚いたという。 そんな川藤 …, 辻内 崇伸(つじうち たかのぶ 1987年12月5日~) 大阪桐蔭高校時代は甲子園のスーパースターだった辻内崇伸。やはり圧巻は最速156キロのストレート。球場の表示は152キロ。オリックスのスコアラー …, 工藤 公康(くどう きみやす 1963年5月5日~) 工藤公康は、体格にそれ程恵まれていないながらもストレートは145キロ。 大きなカーブにスライダー、チェンジアップをコーナーに投げ分け相手打線を幻惑 ….