− Skr. バリー,ジョン[バリー,ジョン][Barry,John M.] 科学史家。画期的なルポと高く評価された『グレート・インフルエンザ』をはじめ、これまで5冊の著作がある。 − − Bg. − − というわけで『羽貫琉伊の本棚紹介第一回』はジョン・バリーの「グレート・インフルエンザ 」です。 インフルエンザなら誰でも興味あるよね。もうすぐ流行も始まるし。 インフルエンザはおそらく僕らにもっとも身近な感染症でしょう。 ジョン バリー『グレート・インフルエンザ』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約10件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 Undersøkelser over influenzaens optræden specielt i Bergen 1918–1922. | first = Mark Osborne | title = Paths of Infection: The First World War and the Origins of the 1918 Influenza Pandemic | issue = 1| pages = 55–81| ref = harv| year = 2014}}, 岡田晴恵、速水融、立川昭二、田代眞人 強毒性新型インフルエンザの脅威 p.32 2009増補新版第1刷, 『「スペイン風邪」大流行の記録』平凡社東洋文庫、2008年、p.104。国会デジタルライブラリー『流行性感冒』, Hanssen, Olav. | journal= War in History 1923. Med. ジョン・バリー『グレート・インフルエンザ』平澤正夫訳、共同通信社、2005年3月。 ISBN 9784764105508。 原著「The Great Influenza Feb., 2004」-ブッシュ大統領の2008年夏の読書3冊としてアメリカで有名である。 スペインかぜ(英語: 1918 flu pandemic, Spanish Flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、1918年から1919年にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称である。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるインフルエンザ・パンデミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される[2]。, 感染者は、ある資料では全世界で5億人とされ[3]、 別のデータでは世界人口(18億-19億)のおよそ27%とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上[4]、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである[5][6]。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない[3]。, 流行源は不明であるが、感染情報の初出がスペインであったため、この名で呼ばれる。当時は第一次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり、大戦とは無関係だった[7]。一説によると、この大流行により多くの死者が出て、徴兵できる成人男性が減ったため、世界大戦の終結が早まったといわれている[8]。, スペインかぜと表記されることが多いが[9]、国立感染症研究所などではスペインインフルエンザと表記する[10][11][12]。スパニッシュインフルエンザ(英語のSpanish Fluより)と表記されることもある。当時の日本では(インフルエンザの総称である)「流行性感冒(かんぼう)」とも表記された[13][14][注 1]。, 一般的にスペインかぜでは1918年から1919年にかけて第1波から第3波まで3回の感染拡大が起きたとされている[17][18][19]。, 1918年3月4日、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル (Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜの症例とされている(それ以前にも記録にない感染例があった可能性が高い)[20][21]。同日にはギッチェルの同僚である他の100人以上の兵士も同様の病状を訴え[20]、ファンストン基地ではその後数日以内に計522人の罹患が報告されることとなった[22]。, 当時アメリカは第一次世界大戦に参戦中であり、ヨーロッパへ渡るアメリカ外征軍の大規模訓練場として使われていたファンストン基地で始まったインフルエンザの流行は、他のアメリカ軍基地やヨーロッパへと急速に拡大した[21]。1918年4月を迎えた時点で、アメリカ中西部および東海岸、フランスの複数の港でエピデミックが発生しており、4月中旬までに流行は西部戦線に達した[21]。その後流行はフランス全土、イギリス、イタリア、スペインへと広がり、5月中にロシア領オデッサ、ドイツ領ヴロツワフにまで到達した[21]。5月には北アフリカ、インド、日本にも感染が拡大し[21]、6月には中国でアウトブレイクが報告されたが[23]、7月にオーストラリアに達した後、パンデミックの第1波は後退を始めた[21]。, 1918年の第一四半期に始まったスペインかぜの第1波は、比較的穏やかな波であった[24]。死亡率は平時と比べて際立って高いものとはならず[25]、アメリカで1918年1月から6月までに報告されたインフルエンザによる死者は最大7万5,000人にとどまり(1915年の同時期でも最大6万3,000人)[26]、スペイン・マドリードにおける1918年5月–6月の死者数も1000人未満だった[27]。一方で、第1波はフランス軍、イギリス軍、およびドイツ軍の兵力の多くを罹患させたため、第一次世界大戦の軍事作戦には大きな混乱がもたらされた[21]。, 第一次世界大戦中の士気維持のため、アメリカやヨーロッパの各国でインフルエンザの流行について報道統制が行われた一方で、中立国であったスペインでは被害の状況が自由に報道された[28]。首都マドリードでは1918年5月頃から第1波についての新聞報道が始まり、その後国王アルフォンソ13世が罹患すると報道はさらに大々的になった[29]。第1波時にスペイン発の報道が注目された結果、発生源はスペインであると広く信じられ、このパンデミックは世界的に「スペインかぜ (Spanish flu)」と呼ばれることとなった[28][7]。, 1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスのブレスト、シエラレオネのフリータウンという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始まった[30][21]。アメリカではボストン海軍工廠およびボストン近郊のディベンス駐屯地(英語版)から各地の軍事施設へと急速に感染が広がった[31]。大戦による軍隊の移動にも助けられ、第2波は2カ月のうちに北アメリカ全土に拡大し、その後中央アメリカ、南アメリカにも到達した[32]。ブレストで始まった流行は1918年9月末までにヨーロッパのほぼ全域に広がり、各国の軍事作戦も小康状態に陥った[33]。ヨーロッパの第2波はロシアにも拡大し、ロシア内戦やシベリア鉄道を通じて北アジア全域へと持ち込まれた後、イラン(ペルシア)に達した[19]。1918年9月にはインド、10月には中国と日本にまで到達した[19]。1918年11月、第一次世界大戦の休戦協定に伴う祝賀行事がロンドンやリマ、ナイロビなどで感染拡大を招いたものの、第2波は1918年12月までに世界的にほぼ収束した[19]。, スペインかぜの第2波は通常のインフルエンザに類似していた第1波とは異なり、健康な25–35歳の若年者層において非常に高い致死性を示し、死亡者数も大幅に増加した[28]。第2波の最中である1918年10月はパンデミックの全期間中で最も多くの死者を出した月となった[35]。アメリカでは最大29万2000人の死亡が1918年9月–12月に報告され(1915年の同時期には最大2万6000人)[26]、イギリスでもスペインかぜによる総死者(22万8000人)の64%が1918年10月–12月に発生したと考えられている[36]。, 1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した[28][37]。その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリで講和会議に出席していたアメリカ大統領ウィルソンも罹患した[38]。第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した[37][39][17]。日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた[40]。, 第3波の毒性は第1波よりも高く、第2波よりも低かった[37]。アメリカにおける1919年1月–6月のスペインかぜによる死者は数万人であった[41]。スペインにおける1919年のインフルエンザによる死者は約2万1,000人であった(1918年の死者は約14万7,000人)[39]。, スペインかぜ(1918年パンデミック)の起源については諸説あるが、いずれも仮説の域を出ていない。, ウイルス学者ジョン・オックスフォード(英語版)は、1918年パンデミックの起源を第一次世界大戦中フランスのエタプル(英語版)に存在した大規模なイギリス陸軍の駐屯地と推定している[42]。オックスフォードの研究によれば、エタプル駐屯地では1916年末にスペインかぜと症状が類似する致死率の高い新種の病気が流行し[43][42]、その後1917年3月にはイギリス本土のオールダーショットにある陸軍の兵営でも同様の流行が発生しており[44]、イギリス軍の病理学者はのちにエタプルおよびオールダーショットで流行した病気が1918年のスペインかぜと同一のものであったと結論づけている[45][42]。オックスフォードはエタプル駐屯地について、常に約10万人の兵士が密集した状態で存在しただけでなく、敷地内に大規模なブタの飼育所があり、周辺の市場から生きたニワトリやアヒル、ガチョウが持ち込まれていたなど、呼吸器系ウイルスが流行するためには理想的な環境であったと指摘している[45]。, アメリカ合衆国は複数の研究者によってスペインかぜの起源と考えられている[42]。歴史学者アルフレッド・クロスビーは1918年パンデミックがアメリカのカンザス州に起源を持つと述べている[46]。同様に、ジョン・バリー(英語版)はカンザス州のハスケル郡で1918年1月に発生した病気の流行がスペインかぜの起源であるとしている[42][47]。アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、アメリカでは1915年と1916年に既にインフルエンザと肺炎による死亡率の急増が見られていたと指摘する一方で、この現象と1918年パンデミックとの関連性は不明としており、パンデミックの地理的な発生源を特定するには歴史的・疫学的なデータが不足していると述べている[48]。他に、カナダの鴨のウイルスがイリノイ州のブタに感染したとの推定もある[49][注 2]。, パスツール研究所のウイルス研究者クロード・アヌーン (Claude Hannoun) は1993年、スペインかぜのウイルスは中国からもたらされた可能性が高いと主張した。アヌーンは、中国に由来するウイルスがアメリカのボストン近郊で変異したのち、フランスのブレストに渡ってヨーロッパ全域に広まり、その後連合国の兵士を主な媒介者として全世界に広まったとの見解を示した[50]。歴史家マーク・ハンフリーズ (Mark Humphries) は、第一次世界大戦中イギリス・フランス軍後方での作業に約9万6000人の中国人労働者が動員されたことが1918年パンデミックを引き起こした可能性があると述べている[51]。ハンフリーズによれば、1917年11月に中国北部で流行した呼吸器系の病気は中国の検疫官によってのちにスペインかぜと同一のものと確認されている[51][52]。, 進化生物学者マイケル・ウォロビー (Michael Worobey) が中心となった研究チームは2019年、スペインかぜの中国人労働者起源説に対する反証を示した[53]。ウォロビーらは、ヨーロッパに渡った中国人労働者の間でインフルエンザの症例が報告された時期は同地点の他の集団に対して遅れているなどの理由を挙げ、彼らが最初の感染源であった可能性は低いと指摘した[53]。, 世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる[54]。当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。, 世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。アメリカでも50万人が死亡したとされる。これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである[注 3]。, 日本では1918年(大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた[55]。, その後、1918年(大正7年)8月に日本上陸、同年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していること[56]や、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1回の大流行が1918年(大正7年)10月から1919年(大正8年)3月、第2回が1919年(大正8年)12月から1920年(大正9年)3月、第3回が1920年(大正9年)12月から1921年(大正10年)3月にかけてである[57]。, 当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。有名人では1918年(大正7年)に島村抱月が、1919年(大正8年)に大山捨松、竹田宮恒久王、辰野金吾がスペインかぜにより死去している。, 第1波の患者数・死亡者数が最も多い。第2波では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。第3波の患者数・死亡者数は比較的少数であった。, 感染者数2380万人、死亡者約39万人が内務省衛生局編『流行性感冒』(大正11年/1922年)による統計数値である[58]。, 速水融は死亡者を約45万人(肺結核、気管支炎等が死因とされていた者を含む)[59]と推計している。, スペインかぜはH1N1型インフルエンザウイルスが原因とほぼ特定されているにもかかわらず、他のインフルエンザ流行とは異なる特徴がいくつか見られる。, ただし、第1次世界大戦中の流行であり、当時の記録には様々な混乱要素が含まれ得ることを考慮する必要がある。, 若年成人が死に至りやすい傾向が見られた。一般にインフルエンザの犠牲者は乳幼児(0–2歳)、高齢者(70歳以上)、免疫不全者に集中することから、これはスペインかぜの際立った特徴と考えられる。, アメリカの記録では、1918年から1919年までのスペインかぜによる死者数の99%は65歳未満であり、ほぼ半数が20歳から40歳の間である。65歳未満の死亡率は65歳以上の6倍であった。1920年になると65歳未満の死亡率は65歳以上の半分まで減少したが、それでも死者数の92%が65歳未満であった[60]。日本の記録でも同様の傾向が見られた[61]。, 若年成人の死亡率の高さについては、スペインかぜのウイルスが引き起こすサイトカイン放出症候群が若年成人の強い免疫システムを破壊する[62]ことが原因の一説として挙げられている。妊婦の死亡率が特に高い[63]ことも若年成人の死亡率を高くした要因と見られる。また、実際にはスペインかぜのほとんどの犠牲者が栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態による細菌性の重感染を死因としているとの指摘もあり[64][65]、第一次世界大戦による過酷な兵役、軍需産業への動員が若年成人の死亡率を引き上げた可能性もある。, 高齢者の死亡率の低さについては、この時代の高齢者は1889年頃に流行した「ロシアかぜ」で免疫を獲得していたのではないかとの説もある[66]。, スペインかぜの病原体は、A型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)である。ただし、当時はまだウイルスの分離技術が十分には確立されておらず、また実験動物であるマウスやウサギに対しては病原性を示さなかったことから、その病原体の正体は不明であった。, ヒトのインフルエンザウイルスの病原性については、1933年にフェレットを用いた実験で証明された。その後、スペインかぜ流行時に採取された患者血清中にこの時分離されたウイルスに対する抗体が存在することが判明したため、この1930年頃に流行していたものと類似のインフルエンザウイルスがスペインかぜの病原体であると考えられた。, その後、1997年8月にアメリカ合衆国アラスカ州の凍土より発掘された4遺体から肺組織検体が採取され、ウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやくスペインかぜの病原体の正体が明らかとなった。, これにより、H1N1亜型であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであったことが証明された。よってスペインかぜは、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったものと考えられている。つまり、当時の人々にとっては全く新しい感染症(新興感染症)であり、ヒトがスペインかぜに対する抗体を持っていなかったことが、パンデミックの原因になった。, スペインかぜについては、ゲノム解読された遺伝子からウイルスを復元したところ、マウスに壊死性の気管支炎、出血を伴う中程度から重度の肺胞炎、肺胞浮腫を引き起こすことが判明した。このような強い病原性は、ウイルス表面にあるタンパク質HA(赤血球凝集素、ヘマグルチニン)が原因である。また、スペインかぜウイルスは、現在のインフルエンザウイルスよりも30倍も早く増殖する能力を持つことが分かっている(増殖を司る3つのDNAポリメラーゼによる)。, 通常の流行では小児と老人で死者が多いが、スペインかぜでは若年成人層の死者が多かった点に関して、2005年5月にマイケル・オスターホルム(英語版)はウイルスによって引き起こされるサイトカインストームが原因[67]であるという仮説を提唱したが、これに反対する説もある。一方2007年1月に、科学技術振興機構と東京大学医科学研究所が、人工合成したウイルスを用いてサルで実験した結果では、スペインかぜウイルスには強い致死性の肺炎と免疫反応の調節に異常を起こす病原性があることを発表している[68][注 4]。, 2008年12月に、東京大学の河岡義裕など日米の研究者グループによって、強い病原性を説明する3つの遺伝子を特定したことが発表された[69][注 5]。, La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、, サイトカインストーム説の出所はF・マクファーレン・バーネットの免疫過剰反応説である。, {{cite journal avd. 66 s. ill. (Haukeland sykehus. 読書日記「グレート・インフルエンザ」(ジョン・バリー著、平澤正夫訳、共同通信社刊) 新型コロナ蔓延で休館になる前の図書館で、 エゴン・シーレ の本を見つけたが、風邪を引いた奥さんを看病していて28歳で死亡したと書かれていた。 インフルエンザ 共同通信社/ その他 ジョン ゲームソフト バリー, 即日発送 平沢 正夫 ノンフィクション【中古/ 共同通信社 [単行本]【ネコポス発送】 事実を観て真実を探るコンサルタントが世界情勢を踏まえて政治経済の情報を発信します。