function(){ 千秋楽は豪栄道を突き落としで破り、2006年1月場所の栃東以来10年ぶり(59場所ぶり)の日本出身力士の優勝(帰化日本人を含めれば2012年5月場所の旭天鵬以来3年半ぶり)を決めた。なお、31歳11カ月での初優勝は、年6場所制が定着した1958年以降、霧島の31歳9カ月を抜いて旭天鵬、貴闘力に次ぐ3位の年長記録。初土俵から84場所での初優勝は、優勝制度が制定された1909年5月場所以降、隆の里に次いで6番目のスロー記録。新入幕から66場所での初優勝は、1909年5月場所以降、旭天鵬に次いで2番目のスロー記録。大関26場所目での初優勝は、昭和以降の新大関で、21場所の千代大海を上回る史上最スロー記録。佐渡ケ嶽部屋の優勝は2008年5月場所の琴欧洲以来14度目。二所ノ関一門も琴欧州以来。部屋別では九重部屋の52度が最多となっている[23]。福岡県出身力士としての優勝は沖ツ海、魁皇に次いで3人目。32歳の誕生日の1月末に結婚式を行った。, 3月場所は、今までの安定感の欠如から、高い水準での優勝、内容が求められる、という条件のもと、初の綱獲り場所となった。初日から先場所の勢いそのままに4連勝。しかし、5日目の隠岐の海戦で土俵際のはたきこみに屈して初黒星。9日目からは稀勢の里、豪栄道、照ノ富士の3大関に敗れ3連敗で4敗、場所後の綱取りは消滅した。13日目以降の3横綱との戦いもいいところなく全敗し、8勝7敗の成績で終えた。, 5月場所は6日目までに格下相手に2回立合い変化を受けて2敗し、早々に優勝戦線から脱落。最終的には10勝5敗だった。, 7月場所は大関となって初の開幕4連敗スタート。5日目に同じく4連敗の御嶽海を破ってようやく初勝利を挙げた。しかし6日目に隠岐の海に敗れ5敗目を喫し、古傷の左膝などを痛めたため、翌日から日本相撲協会に「左膝内側側副靭帯損傷、左アキレス腱周囲炎のため約14日間の安静、加療を要す」との診断書を出して休場。7日目の魁聖戦は不戦敗となり、魁聖は2014年初場所の琴奨菊自身以来となる1場所2度目の不戦勝。秋場所は6度目の角番になる[24]。大関角番6回は武双山に並ぶ歴代6位の記録。, 9月場所は9勝6敗で角番を脱出するも千秋楽に豪栄道に敗れ全勝優勝を許してしまった。, 11月場所前の11月4日、尾車部屋の九州場所宿舎で行われた二所ノ関部屋の連合稽古では、それまで182kgあった体重を173kgまで落としたにもかかわらず稀勢の里に馬力勝ちする場面もあり「ちょっとやせて、動きやすくなった。もうちょっとやせてもいいのかな。馬力もしっかり乗っているし」と本人も手応えを感じていた[25]。

角番(かどばん)は、大相撲の本場所において負け越しをした場合に、その地位から陥落するという状況である[1]。通常は、現役大関の力士に対して用いられる[2]。新聞などでは「角」の漢字を「かく」「つの」等と読み間違えしない配慮で「カド番」「かど番」とかな字で表記する場合が多い。, 大相撲においては、基本的に本場所で負け越した場合には番付が下がる(陥落・降格)が、大関については、その地位に上がるための規則が変則的であり、異なる基準によってその陥落を決めている。大関は、本場所で2場所連続で負け越した場合に関脇に陥落する決まりになっており、1場所目に負け越した後の2場所目が「角番」といわれる。その場所で勝ち越しすれば、「角番を脱出する」と言うが、負け越すと大関から陥落(関脇以下に降格)するため、該当力士にとっての「正念場」とされる。, ただし、大関から陥落した力士に対しては救済措置として、取り組み日数の3分の2以上の勝星を挙げれば特例として大関に復帰できる。1場所の日数は毎場所15日[3]であるため、10勝以上が必要である。なお、この特例は陥落直後の1場所のみ有効であり、この場所が9勝以下であった場合は、新大関の昇進時と同じ基準(関脇・小結の地位で連続3場所33勝以上、且つ全て10勝以上が目安)を達成しなければならない(この場合は「大関復帰」ではなく、「再度の大関昇進」の扱いを受ける)。, なお、大相撲の番付の上下については、他の力士の成績との兼ね合いに左右され、横綱・大関昇進についてはその内容までが評価対象となるが、上記の大関陥落、特例の復帰については一切考慮されず、純粋に本人の成績のみによって決まる。, 2場所連続負け越しでの大関よりの降下は、1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。この頃は復帰に関しての明確な規定はなかった(1949年1月場所に関脇へ転落した汐ノ海が、1950年1月場所で再び大関に復活したのが唯一のケースである)。その後、1958年に年6場所制が実施されたときに、「3場所連続負け越し」で陥落することに定められた(この制度下での大関陥落者は、松登と若羽黒の二力士)。, しかし「これでは甘過ぎる」という意見も出たために、1969年7月場所からは再び「2場所連続負け越し」での降下に改められた。また、同時に特例での復帰制度が定められた。この制度変更により、大関残留の条件が「負越→負越→8勝」から「負越→負越→10勝」(しかも3場所目は一旦関脇陥落)と、少し厳しくなった。, なお、かつて大相撲で公傷制度が実施されていた時は、公傷が認められた全休場所はカウントされず、その翌場所が角番場所となっていた。公傷制度が始まった1972年1月場所当初は、大関のみ適用外であったが、1983年5月場所からは大関も公傷適用の対象に該当された[4]。しかしその後、場所中に公傷適用による休場力士が増加し、さらに当時の大関陣が休場すれば公傷と認定される弊害が多く出た理由もあって、2003年11月場所限りで公傷制度は廃止となった。, 2000年代に千代大海や魁皇がほぼ隔場所で角番の状態で長く大関を維持し、従来の記録を大幅に更新した頃から現行制度の見直しも論じられるようになり、横綱審議委員会から「累積5回の角番で降格や引退勧告」という具体案が出されたこともあった[5]。しかし、日本相撲協会内部で改訂が議論されるまでには至っていない。また、千代大海らは角番の数も多いが大関に在位した期間自体も長く、更に彼ら以降に長期在位した多くの大関が角番回数の上位に入っている。, 大関から関脇の地位へ陥落し、転落直後の場所で10勝以上を挙げて大関に特例復帰した力士は、三重ノ海・貴ノ浪・武双山・栃東・栃ノ心・貴景勝の6人である。その内、三重ノ海は大関転落者で唯一の横綱昇進を果たし、栃東は2度の特例復帰を達成している。貴景勝は優勝決定戦までもつれこむも敗れ、史上初の特例復帰と同時の優勝はならなかった。, 関脇陥落場所で特例復帰の10勝を挙げられずに、のちに大関再昇進を果たした力士は魁傑ただ1人である(但しその4場所後に又も関脇陥落した)ため、以下の表では魁傑の成績を示す。, 《参考》年6場所制(1958年1月)以降現行制度(1969年5月)以前の大関力士・負越と角番回数, 「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、76頁。, (国家的な行事や、突発的な大災害、また相撲界の不祥事などで)取り組み日数の減少があった場合でも、実際に行われた日数の3分の2以上で計算する事となっている(13日に短縮された場合は9勝で条件を満たす、等)。, 幕下時代の1990年11月場所からの記録だと通算55場所連続勝ち越し(歴代1位)となる。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=角番&oldid=79614054, なお千代大海は関脇陥落直後の場所中に、武双山と若嶋津は大関角番の場所中に、豪栄道は関脇陥落が決まった場所の千秋楽後に、それぞれ引退を表明。, 「負越」した回数の内で、「括弧()内」の公傷適用による全休場所は除く。なお大関力士への公傷制度適用は1983年5月場所~2003年11月場所。, 場所途中で引退表明した魁皇(3勝8敗)・武双山(0勝4敗)・大麒麟(1勝3敗)・貴ノ花(2勝5敗)・若嶋津(0勝3敗)の引退場所は、負け越しに数えない(各, ※印の栃東は引退表明をした直後の2007年5月場所も含めると、31場所になる。またこの番付記載のみの場所も負け越しには数えない。, 松登は年6場所制となった1958年の11月場所後、大関で3場所連続負け越しの為関脇に陥落(年6場所制以前の大関負越は2回・角番2回、年6場所制以降の大関負越は5回・角番2回)。, 北葉山・朝汐・佐田の山・玉乃島は大関で負け越し(途中休場も含む)を経験したものの、角番は一度も無かった(但し北葉山は大関で2場所連続負越の1966年5月場所千秋楽に引退)。, 栃光は大関で2場所連続の負け越し後、角番の1966年1月場所も5勝10敗と3場所連続負越、関脇陥落が決定的となったのを機に引退。, ※印の琴櫻が過去3回の角番は、1969年7月の現行制度導入以降の22場所中である(1969年5月以前の大関負越は2回・角番0回、1969年7月以降の大関負越は3回・角番3回)。, 大関連続勝越(角番無し)期間の↑印は、場所後に横綱昇進した力士である(武蔵丸・稀勢の里・玉乃島・旭富士・北の富士)。, *印の玉乃島(のち玉の海)と北の富士の二人は1969年5月場所以前からの連続勝ち越しを含む。, 玉乃島(のち玉の海)は1967年3月場所に皆勤負け越し(7勝8敗)を喫したが、当時は「3場所連続負越で大関陥落」(2場所連続負越で大関角番)の制度だった。「角番無し」で数えると、新大関場所の1966年(昭和41年)11月 - 1970年1月の20場所(琴風と並び3位タイ記録)となる。, 北の富士は1967年5・7月場所を5勝10敗、7勝8敗と大関の地位で2場所連続負け越し、当時の規約で大関角番を一度経験している。, ☆印の武蔵丸・旭富士の二人は、大関在位中一度も負越・角番の経験無しで、横綱に昇進した。, 武蔵丸は新入幕の1991年11月場所から横綱3場所目の1999年11月場所まで幕内49場所連続勝ち越し(歴代3位), ※印の朝潮(4代)の前場所は1983年9月場所の成績。1983年11月場所は公傷により全休。, この内、公傷適用が切れて全休した琴風と雅山の二人は平幕の下位に転落。休場明けの場所で、琴風(1985年11月場所)は東前頭10枚目で0勝4敗(現役引退)、雅山(2002年3月場所)は東前頭8枚目で9勝6敗。, 上記の8力士共に角番大関で優勝したものの、次場所では「大関で2場所連続優勝、もしくは準ずる成績」を挙げる事が出来ず、全て横綱昇進は果たしていない。, 但し、☆印の貴ノ花(のち貴乃花)の一人だけが、その後1994年9月と11月場所に「大関で二場所連続全勝優勝」を達成して、1995年1月場所に新横綱と成った。.