正慶2年/元弘3年(1333年)、配流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇は倒幕の兵を挙げ、足利尊氏や新田義貞らが呼応。執権・北条高時らを滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡する。 祥子内親王(最後の伊勢神宮斎宮), 後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉[注釈 2]、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日[1]〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。, 大覚寺統の天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り[2]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。, 日本史上最も偉大な統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評され[注釈 3]、両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特に重大なのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである[4]。裁判機構に一番一区制を導入したり[4]、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は[5]、以降の全国政権の統治制度の基礎となった[4]。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)[6]、官位を恩賞として用いたこと[7]、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあること[8]などが挙げられる。, 学問・芸術の天才と評され、儒・礼・密・禅・律・神・書・歌・文・楽・茶の全分野で記念碑的業績を残した。宋学最大の研究者の一人。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に根源的な影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等3点の書作品が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の優れた研究者。琵琶の名手で神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道の前身を始めた大茶人の一人でもある。, 情愛深く温和な人柄のために広く慕われ、不運が幾つも重なって結果的に敵同士になってしまった尊氏からも生涯敬愛された。多くの局面において対立を好まず、融和路線を志向した。真言律宗の名僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、生ける菩薩として深く崇敬し、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、稀に見るおしどり夫婦として当時名高く、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。, 崩御から30年後ごろに北朝で完成した軍記物語『太平記』では、好戦的で執念深い独裁的暗君として描かれた。この人物像は1960年代の佐藤進一の学説や1980年代の網野善彦の「異形の王権」論を通して、高校教科書等にも定着した。一方、佐藤の研究を契機として、森茂暁らによって実証的研究が積み重ねられた。こうした中、20世紀末、市沢哲は、建武政権の政策には、鎌倉時代後期の朝廷政治と連続が見られると指摘した。また、伊藤喜良は、建武政権は短命に終わったとはいえ、その内部での改革には現実的な発展が見られると指摘した。2000年代には、内田啓一が仏教美術・仏教学的見地から、網野の「異形の王権」論に反駁した。市沢・伊藤・内田らの説を基盤として、2000年代から2010年代にかけて研究が進められた結果、鎌倉時代後期の朝廷および幕府・建武政権・室町幕府の政策には連続性があることが確かめられた。2020年時点での新研究の範囲においては、建武政権の崩壊は偶発的事象の積み重ねによるもので必然ではなく、後醍醐は高い内政的手腕を持ち、また人格的にも優れた人間であったと評されるようになった[注釈 4]。, 大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。, 徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王に次ぐ系統(河内祥輔の表現では「准直系」)と位置付けられていた。「中継ぎ」の「一代の主」というきわめて脆弱な立場だったという旧説もあるが、これは対立皇統である持明院統由来の文書にしか見られず、そこまで弱い立場ではなかったようである。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。これには、後宇多が傾倒していた真言宗の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説)[11]や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説)[12]などがある。いずれにせよ、前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に、後醍醐天皇が治天の君となったのは、後宇多から後醍醐への信任があったからだと考えられている[12][11]。, 正中元年(1324年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題が天皇の側近日野資朝を処分する正中の変が起こる。公式判決では、後醍醐は無罪として釈放された。軍記物語『太平記』では実は裏で後醍醐は倒幕を計画していたと描かれており通説化していたが、2000年代から後醍醐は本当に無実だったとする見解も徐々に支持されるようになってきている。, その後、嘉暦元年(1326年)6月からおよそ3年半余り、中宮である西園寺禧子への御産祈祷が行われた[13]。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる[13]。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である西園寺家所生の親王が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている(河内祥輔説)[14]。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている(西園寺禧子#『太平記』)。, 邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の尊良親王ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの光厳天皇)だったため、譲位の圧力は強まった。, 元弘元年(1331年)、倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。, 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。, 元弘3年6月5日(1333年7月17日)に帰京[15] した後醍醐天皇は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上[16])と宣言し、建武の新政を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「#評価」の節に譲る。, まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とし(数ヶ月後に解任)、足利高氏を戦功第一とし自身の諱(本名)「尊治」からの偏諱「尊氏」の名を与えて鎮守府将軍や参議などに任じた。同年中に記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所(頭人(長官)は新田義貞)・窪所などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子北畠顕家を東北・北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟足利直義を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。, 翌年(1334年)に入るとまず1月23日、父の後宇多天皇が大覚寺統嫡流に指定した甥の邦良親王の血統ではなく、実子の恒良親王を皇太子に立てた[17]。, 同年1月29日(1334年3月5日)、簒奪者王莽を倒し後漢を開いた光武帝の元号の建武(けんぶ)の故事により、元号を建武(けんむ)に改元した[18]。, 同年中に、検非違使庁による徳政令(建武の徳政令)発布(5月3日)[19]、恩賞方の再編(5月18日)[20]、雑訴決断所の拡充(8月)[21] などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣(紙幣)併用とする官銭乾坤通宝を計画し[22]、中御門宣明を鋳銭長官・五条頼元を鋳銭次官に任じた[23]。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に蟄居となった(『梅松論』『保暦間記』『大乗院日記目録』)[24]。, 建武2年(1335年)6月15日には造大内裏行事所始が行われた[25]。6月22日、大納言西園寺公宗の謀反が発覚し、武者所職員の楠木正成・高師直らに捕縛された[26]。, 建武2年(1335年)、北条氏残党の北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。, 『梅末論』によれば、このとき、楠木正成は勝利した側であるにも関わらず、後醍醐天皇に尊氏との間の早期講和を進言した。しかし、公家たちから退けられた。ただし、この時点では尊氏本人すら敗北必至だと思っており、正成の先見の明を示す逸話であっても、後醍醐や公家たちが足利方に比べて戦略眼がなかったという訳ではないことに注意する必要がある。, 尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の院宣を得たのちに再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に湊川の戦いで勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。, 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。, 摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。, 後醍醐を直に見たことがあると思われる『増鏡』作者の貴族(二条良基など諸説あり)は、天皇である後醍醐自身の容姿については余り直接語らない。『増鏡』作者は、後醍醐の逸話を光源氏になぞらえて叙述する傾向が多いが(『増鏡』「秋のみ山」「久米のさら山」等)、これはどちらかといえば王朝文学の雰囲気を出すためかともいう[27]。, 血族に関して言えば、後醍醐の長男である尊良親王は「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのない美男子であると明言されている(『増鏡』「久米のさら山」)[28]。次男の世良親王もまた「いときらきらし」(端正な美形)だったという(『増鏡』「春の別れ」)[29]。尊良と世良、および親族の恒明親王の三人は一緒にいることが多かったが、三人が後醍醐の後ろに並んで歩く姿にさぞや若い女官たちは色めきだったのではないか、と『増鏡』作者は推測している(『増鏡』「春の別れ」)[30]。, 後醍醐天皇は家族思いの人であり、家族間の交流を常に欠かさず、そのため強く慕われていた。, 正妃である中宮・西園寺禧子とは小説的な逃避行で結ばれた仲であり、二人の熱愛と夫婦仲の睦まじさは『増鏡』などで名高い[13]。後醍醐は正妃を最も大切に扱って寵愛し、側室もないがしろにしない人物だった(#正妃を手厚く扱う)。, 第一皇子の尊良親王には、中務卿など政界の重職での経験を積ませ、節会に出仕させるなど、自分自身の親王時代と同じキャリアを歩ませている[31]。落選こそしてしまったものの、皇太子候補選に推挙したこともある[31]。, 第二皇子の世良親王は、後醍醐が出御する時の御供として側に置くことが多かった[31]。嘉暦3年(1328年)10月9日には、関白の二条道平に頼み、世良が議奏という重要な公務を行うのを支えて欲しいと言い、当日、世良が公務を大過なく果たしたのを見ると、後醍醐は上機嫌になったという(『道平公記』)[31]。日本史研究者の中井裕子は、「息子の成長を喜ぶ父親の顔が目に浮かぶようである」と評している[31]。, 子どもたちとの関係で最も争点となるのは、第三皇子の護良親王との関係である。結果論で見ると、護良は建武政権から排斥された上に、若くして中先代の乱の混乱で足利直義の部下に暗殺されたという悲劇性のために、多く後醍醐が悪玉と描かれ、護良は父から嫌われた悲運の子とされる説もある(新井孝重の著書[32]など)。しかし、亀田俊和の説によれば、実際は父子間の愛情は決して弱くはなかったという[33]。そもそも、護良は征夷大将軍に正式に補任される前から将軍を僭称し、綸旨(天皇の命令文)と矛盾する令旨(皇族の命令文)を乱発し、足利尊氏に公然と敵対し、また私兵を勝手に京都に駐留させたりしている[33]。客観的に見れば、たとえ元弘の乱最大の殊勲者の一人であったとしても、即刻、粛清されても仕方ない行為である[33]。「護良が失脚したのは、後醍醐が護良を嫌っていたから」と解釈するよりも、むしろ「護良が1年数か月も失脚せずにいられたのは、後醍醐から護良への温情があったから」と解釈する方が妥当であろうという[33]。では何故このように、護良が問題行動を起こしたのかというと、身内でもない上に武士であるのに父からの寵愛を一身に集める尊氏を見て、尊氏への嫉妬心を起こしたのではないか、と亀田は推測している[33]。, 正妃の禧子との皇女である懽子内親王については、元徳3年(1331年)8月20日、元弘の乱で幕府に捕縛されてから笠置山の戦いを起こすまでという緊迫した時期にもかかわらず、娘のためにわざわざ時間をとって伊勢神宮斎宮の儀式の一つである野宮(ののみや)入りの手続きを行っている(『増鏡』「久米のさら山」)[34]。この時期に懽子が野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば、挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという[34]。懽子は光厳上皇妃だったにもかかわらず、26歳で出家しているが、安西奈保子の推測によれば、時期的に父の崩御を悼んでのものだったのではないか、という[35]。, 父の後宇多上皇とは、かつては仲が悪いとする説があった[36]。しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという[37]。三条実躬の『実躬卿記』では、徳治2年(1307年)1月7日の白馬節会で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている[37]。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった遊義門院が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された[38]。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにも関わらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという[38]。後宇多の命で帝王学の書である『群書治要』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという[39]。, 母の五辻忠子には、践祚わずか2か月後に女院号の「談天門院」を贈り、自身の出世を支えてくれた母を労っている[40]。, 祖父の亀山上皇からは、母の忠子が後に亀山のもとに身を寄せたこともあって可愛がられており、亀山の崩御まで庇護を受けていた[41]。最晩年の亀山に子の恒明親王が生まれてそちらに寵が移ったあとも、亀山は後醍醐のことを気にかけており、忠子と後醍醐に邸宅や荘園などの所領を残している[41]。, 同母姉である奨子内親王(達智門院)とは、20歳前後のころから『増鏡』「さしぐし」で和歌を贈り合う姿が描かれるなど、仲良し姉弟として当時から知られていた[42]。後醍醐が即位すると、非妻后の皇后に冊立されている[42]。その後もたびたび和歌のやり取りをしたことが、『続千載和歌集』『新千載和歌集』などに入集している[42]。『新葉和歌集』では後醍醐を追悼する和歌が2首収録されている[42]。, 家族で唯一、大覚寺統正嫡で甥の邦良親王およびその系統とは仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という[43]。また、後醍醐の乳父である吉田定房と邦良派の中御門経継は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』元応元年(1319年)10月28日条)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という[43]。, 『増鏡』作者は、恒明親王(後醍醐祖父の亀山上皇の最晩年に生まれた子)も後醍醐と交流が深く、特に後醍醐の子である尊良・世良と一緒にいることが多かったと描いている(『増鏡』「春の別れ」)[30]。実際、恒明派から世良を通じて後醍醐派に転じた廷臣も多く、北畠親房はその代表例である[44]。, 血縁だけではなく、妻方の家族とも交流があった。中宮禧子の父の西園寺実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を学び、その名手だった[45]。また、側室の二条為子の実家である二条派に学び、その代表的歌人でもある[46]。, 『太平記』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関[注釈 5])に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている[47]。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた[48]。, その後、2007年に久野修義によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した[48]。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという[48]。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の後宇多院ら大覚寺統が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され[49]、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている[48][49]。, 側近である北畠親房の証言(『神皇正統記』)によれば、後醍醐天皇は当時の公家社会の一員としては異様なまでに武士を好いており、次々と武士を優遇する政策を打ち出したため、公家たちから批判されることもあるほどだった[50][51]。, まず、鎌倉幕府の御家人身分(御恩と奉公によって征夷大将軍に直属する武士の特権階級)を撤廃した[52]。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられるが[52]、もう一つの理由として、御家人は天皇からすれば陪臣(家臣の家臣)に当たるので、それを廃止して全ての武士を天皇の直臣に「昇格」させることで、武士全体の地位向上を図る狙いがあった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)[注釈 6][52]。, また、恩賞として官位を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた[51]。公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(→北畠親房からの評価)。, 後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、記録所・恩賞方・雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された[54]。鎌倉幕府の本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という[54]。また、森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い楠木正成と名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である記録所寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という[55]。, 後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった[56]。例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権で雑訴決断所職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である評定衆の一人となっている[56]。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という[57]。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている[3]。, また、(建武の乱が発生するまでは)足利尊氏をことのほか寵愛した[58][注釈 7]。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった[60]。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と護良親王(後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った[61]。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と[62]、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議など重要官職を惜しみなく与え[58]、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた[63]。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した[63]。弟の直義もまた、15ヶ所の土地[62]と鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している[64]。, 後醍醐天皇は、既に倒れた得宗北条高時に対しては、その冥福を祈り、建武2年(1335年)3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡に宝戒寺を建立することを企画した[65][注釈 8]。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、観応の擾乱(1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、円観を名義上の開山(二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年(1353年)春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している[65][注釈 9]。また、高時の遺児の北条時行は中先代の乱で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した[66]。, とはいえ、後醍醐天皇に対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった[67]。たとえば、摂津氏・松田氏・斎藤氏らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった[67]。, 建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))[68]。その一方で、北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた[69][70]。このことについて、森茂暁は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」[70]とし、岡野友彦もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする[69]。, 鎌倉時代後期、徳政という思想が普及し、悪しき政治は天変地異に繋がると考えられたため(天人相関説)、為政者たちは善政に励み、天災を防ごうとした[71]。徳政の最も重大な事項は訴訟制度改革であるが[72][73]、それに次いで、朝儀(古代の朝廷儀礼)を復興させることも重要な課題と考えられていた[73]。後醍醐天皇は特に延喜・天暦の治(10世紀の醍醐・村上両帝の治世)を復興すべき徳政・朝儀の理想像とした[74]。朝儀復興者としての後醍醐は、鎌倉時代末期の世人に「聖代」と仰がれ(『後伏見天皇事書』)、南北朝時代には北朝の准三宮二条良基からも敬意を払われた[73]。, 後醍醐天皇は特に朝儀の研究面において、有職故実に精通し、自ら『建武年中行事』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った。この書籍は、行事の起源などの逸話は省略され、いつどのように実行するかという次第が書かれた実践書となっており、酒井信彦は、建武の新政下での儀礼執行への手引書として実践目的で書かれたものではないかと推測している[75]。「未来の先例たるべし」という新政の意気込みと対照的に、こちらの序文では「まあ後世の鑑(手本)というほどのものではないにしても、ひょっとしたら、この時代にはこんなことがあったのだなあと、〔後の世の人たちにとって〕何かの参考にはなるかもしれない」[注釈 10]と述べている[76]。, 『建武年中行事』は宮中で高く評価された。後花園天皇(在位1428年 - 1464年)はこれを書写して註釈をつけ、廃れていた行事をこの書に倣って復興するよう、息子の後土御門天皇(在位1464年 - 1500年)に薦めた[76]。のち自身も『後水尾院年中行事』を著した後水尾天皇(在位1611年 - 1629年)も、同書を順徳天皇の『禁秘抄』と並ぶ宝典とし、後世まで残る鑑だと称賛した[77]。, また、後醍醐天皇は建武の新政下で大内裏造営を計画したが、甲斐玄洋は、これはただの権力誇示ではなく、「聖代の政務の場」を復興させることで、徳政を目指したのではないかと主張している[74]。しかしその反面、大内裏造営計画は重税にも繋がることになった[74][78]。公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家(北畠親房の長男)は、『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年(1338年))で重税を諌めたが、これは一般に大内裏造営への批判も含まれていると考えられている[78]。亀田俊和は、造営計画自体は間違いとは思わないが、元弘の乱による疲弊が回復しきっていない時期に行ったという点が問題であると指摘した[78]。, 後醍醐天皇は、建武の新政の後期には、綸旨(天皇の私的な命令文)の代わりに、太政官(律令制の最高機関)の正式な公文書である太政官符を多く発給した[79]。1960年代の佐藤進一らの説では、後醍醐天皇は「綸旨万能主義」を好む独裁君主であるが、暗愚な政策によって綸旨の権威が失墜し、独裁制を形式上制限する太政官符を発給せざるを得なかったのであろうと唱えられ、後醍醐天皇の「敗北」と否定的に捉えられていた[79]。しかし、2007年、甲斐は、鎌倉時代の徳政と公家法に関する20世紀末からの研究の進展を踏まえ、大内裏造営と時期が連動していることも勘案すれば、太政官符発給は朝儀復興の一環と見なすのが妥当であると指摘し、佐藤説とは逆に、公家徳政を志す後醍醐天皇の政治構想に沿ったものであると主張した[80]。, 後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年 - 1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった[81]。後嵯峨天皇から後亀山天皇の治世まで、仏僧に対する国師号授与は計25回行われ、うち20回が臨済宗の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり[注釈 11]、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める[81]。, 中世日本では、天台宗や真言宗といった旧仏教は学問偏重の傾向にあり、しかも高貴な家柄に生まれた僧侶だけが要職に就くことが出来た[83]。禅宗や律宗の僧侶はこれに異を唱え、戒律を重視したため、身分としては低かったが、武家や大衆から広く人気を集めた[83]。後醍醐天皇の属する大覚寺統もまた禅宗に着目し、亀山上皇(後醍醐祖父)は京都南禅寺を開き、後宇多上皇(後醍醐父)は鎌倉幕府からの許可を取った上で南禅寺に鎌倉五山に准じる寺格を認めた[84]。後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである[84]。, この他、五山文学の旗手であり儒学者・数学者としても知られる中巌円月を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された[87]。, 元徳2年(1330年)、元から来訪した明極楚俊(みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である[84]。明極の他、元の臨済僧としては清拙正澄も重用した[84]。, 後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる無文元選は臨済宗の高僧として大成し、遠江国方広寺の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された[88]。, 2018年、日本史研究者の保立道久が唱えた説によれば、後醍醐天皇の禅宗政策からは、後醍醐が融和路線を志向する政治家であることが見て取れ、皇統が分裂した両統迭立を友好的に解消するための手段として、禅宗を活用しようとした形跡が見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という連続性を見ることができ、公武を超えた国家統合の枠組みとして後醍醐が具体的に禅宗を提示したからこそ、その後、明治維新まで500年以上続く武家禅宗国家体制が成立したのではないか、という。, もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら大覚寺統が支持する新興宗教であったが、持明院統でも例外的に花園天皇は禅宗に深く帰依し、特に大徳寺の宗峰妙超を崇敬していた[91]。後醍醐の側も花園の姿勢に好意を持ち、花園を追って大徳寺と宗峰妙超を篤く敬い、両帝ともに大徳寺を祈願所と設定していた[91]。その後、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すと、京に帰還して建武の新政を開始した翌々日の元弘3年/正慶2年(1333年)6月7日という早期の段階で、大徳寺に「大徳寺領事、管領不可有相違者」との綸旨(天皇の命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書』67、中御門宣明奉)[86]。この後もたびたび、大徳寺は所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さは真言律宗の本拠地である西大寺(後醍醐腹心の文観房弘真の支持母体)と並ぶほどであったという[86]。