上高地線紀行(6)波多神社と田村堂 2020-07-18. 遠州鉄道は浜松を中心に、鉄道・バスを運行しています。 天浜線紀行(7)細谷から遠州 ... 個人的な趣向により、旧国鉄線の第三セクター鉄道 ... 上高地線紀行(7)波田駅と新村駅 2020-08-11. 遠州鉄道線の駅で(新浜松~西鹿島)、朝7〜8時頃、タクシーが常駐している駅があれば、教えて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。 確実にタクシーがいる場所でしたら新浜松(JR浜松駅北口・ … 奥山線(おくやません)は、かつて静岡県西部、浜松市の遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から三方原台地を北上して日本国有鉄道(国鉄)二俣線金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市北区)の奥山駅との間を結んでいた、遠州鉄道の鉄道路線。軌間762mmの軽便鉄道。, 元は浜松鉄道(開業当時は濱松軽便鉄道)という、遠州鉄道とは別の私鉄だったが、戦後に合併し遠州鉄道の奥山線となった。また1950年(昭和25年)に途中の曳馬野まで電化され、曳馬野以北からの気動車と併結運転(協調運転ではない)したりもしていた。, 戦後のモータリゼーション到来により業績を落とし、1963年(昭和38年)の区間廃止を経て、翌1964年(昭和39年)に全線廃止された。, 浜松北方にあたる金指は高速交通が通っておらず(国鉄二俣線の開業は昭和に入ってから)、また引佐郡の奥山には半僧坊大権現で知られた方広寺があったため、鉄道建設が待たれていた。加えて沿線の三方原は茶や桑の産地でもあり、貨物需要も見込まれた。このため蒸気動力での濱松軽便鉄道が設立され、大正に入った1914年(大正3年)に、まず浜松市街北西部の元城から金指までが開通、翌年には当初の起点となった板屋町に乗り入れた。同年に金指から気賀(後に気賀口)まで延長している。, ここまでは建設も順調だったが、気賀から奥山までは、用地買収のトラブルや浜松鉄道(1915年(大正4年)に浜松軽便鉄道から改称)自体の経営難から難航し、1923年(大正12年)にようやく奥山まで全通した。, 大正末期から昭和初期にかけて、沿線に陸軍浜松飛行隊第7連隊(現・航空自衛隊浜松基地)等が設置され、旅客・貨物とも軍事輸送が加わり、需要が伸びた(上池川駅を聯隊前駅、小豆餅駅を飛行聯隊前駅、曳馬野駅を廠舎口駅と称した時期がある)。太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)には、浜松側の起点を板屋町から東田町へと改めている。同じ頃、勢力を伸ばし始めたバスへの対抗策として、1929年(昭和4年)にはガソリンカーを導入している。, ところで、国鉄二俣西線(後の国鉄二俣線、現・天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線)は1938年(昭和13年)に金指乗り入れを果たし、浜松鉄道と交差することとなった。このようなケースでは、後から開業した線が陸橋等を築いて昔からの線を跨ぐのが通例だが、二俣線の場合は国鉄東海道本線の非常時迂回線と考えられていたことからか、先に開通した浜松鉄道の方が陸橋を建設し、地平を通る二俣線を跨ぐ構造となった。この陸橋の遺構は今なお残る。, 浜松鉄道は戦後の1947年(昭和22年)、三方原台地の下を走り、起点も近い遠州鉄道と合併し、奥山線を名乗るようになった。その3年後には、合理化の一環として曳馬野までを600Vで電化、曳馬野以北の列車との併結運転も行われるようになった。1951年(昭和26年)には非電化区間での蒸気機関車を全廃、気動車に切り替えた。また1958年(昭和33年)、起点を遠鉄二俣電車線の遠鉄浜松駅に統合している。, しかし浜松という地方中核都市の鉄道ではあるものの、沿線人口が当時それほど多くなく、また遠州鉄道になってからも軽便鉄道のままで貨物輸送も低調(奥山線自体が国鉄と接していないため、荷物の積み替えなどの手間が増えるために敬遠された)で、開業当時から続いていた赤字体質は変わらなかった。1950年代までは、直通運転や高速化、運転本数増などで乗り切ってきた奥山線だが、それでもモータリゼーションの前では苦戦を強いられ、1963年(昭和38年)の気賀口以北の廃止を経て[注釈 1]、翌1964年(昭和39年)10月31日限りで姿を消すこととなった。, 唯一現存する車両である、尾小屋鉄道に譲渡されたキハ1803が小松市立ポッポ汽車展示館で動態保存されている。, 新聞発表が当日の朝だったことから車内は空席が目立ち奥山駅でも見送り風景もみられなかったという, 3月5日:鉄道免許状下付(浜松市-引佐郡気賀町間、引佐郡金指町-同郡奥山村間、引佐郡井伊谷村-同郡伊平村間), 計画は電化と同時に元城町 - 池川間の線路を付け替え、1067mmへの改軌・国鉄への貨車直通まで企図した大規模なものであった。この際の用地買収による土地の区割りへの痕跡が現在も残っている。, 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版、高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、213頁, 浜松都心部では再開発のため、起点の遠鉄浜松駅付近の面影は失われているが、クリエート浜松北側に線路跡をなぞった歩道が整備されている。そこから旧元城駅間は軌道上に住居が建設されている。, 三方原上はまっすぐ伸びていたためか、自動車道に転用されあまり目立った遺構は見受けられない。駅跡の碑がそれを示しているくらいである。, 谷駅前後付近(中部電力(株)遠江変電所南側)には、台形の盛土が比較的綺麗に残っている。その一部には小さな橋梁の遺構も残されている。谷駅から祝田駅間は一部公園になって管理されている部分があるが、ほとんどは管理されておらず、荒れている。冬場であれば軌道跡を散策することも可能。, 最大の遺構といえるのが、金指駅西方の国鉄との立体交差跡である。その前後の築堤は削られたが、古びたコンクリート橋だけは撤去されることもなく残っている。ここから西へしばらくは国鉄二俣線の北側を並んで走っていたため、現在も天竜浜名湖鉄道の道床脇には細長い空き地が続く。, 岡地駅跡はホーム跡が残っているが、上に民家が立てられている。当時のそれを示す看板が設置されている箇所もある。橋梁についても数箇所が残っており、2箇所では道路に転用されている。また「工」の標識が残っている箇所もある。, 気賀口駅北側500m付近で川を横断していたのだが、コンクリート製の橋桁が住宅のすぐ裏に残っている。川を越えてから奥山駅までは生活道路として軌道跡が残っている。, 四村駅跡では駅舎とホームが残っていたが、2009年2月に老朽化により解体された。すぐ隣には四村運送とかかれた当時宅配をしていた建物が残っているが、老朽化が進んでいるため解体されるのも時間の問題だと思われる。. 車両は自社発注のオリジナル車となっており、1000形は1983年から1996年まで製造され、現在7編成が活躍しています。 浜松鉄道は戦後の1947年(昭和22年)、三方原台地の下を走り、起点も近い遠州鉄道と合併し、奥山線を名乗るようになった。 その3年後には、合理化の一環として曳馬野までを600vで電化、曳馬野以北の列車との併結運転も行われるようになった。 本製品は初期編成の1001編成を商品化します。, 関電トンネルトロリーバス 300型 ラストイヤーラッピング英語バージョン・最終便315号車, 留萌本線(留萌〜増毛)最終列車4936D・バスコレ沿岸バス留萌別苅(増毛)線セット, 東武鉄道6050系6179編成(新造車・パンタグラフ増設車リバイバルカラー)2両セット, 京阪電車大津線600形4次車 「響け!ユーフォニアム」ラッピング電車2018 2両セット, 静岡鉄道A3000形(Brilliant Orange Yellow)2両セットD, 遠州鉄道2000形 (株式会社ユタカ技研創立30周年記念ラッピング電車)2両セット, 秋田中央交通軌道線ツートン(新塗装)2両セット/秋田中央交通軌道線ブルー(旧塗装)2両セット, 伊豆箱根鉄道7000系(7502編成)ラブライブ!サンシャイン!