京都と奈良を結ぶjr奈良線の最速達列車が「みやこ路快速」です。 京都と奈良を約45分で結びます。 京都、宇治、奈良を通るので観光客に人気のほか、京都に向かう日常利用も多いです。 トイレも、同じように「西にある」と覚えましょう。, JR西日本「それは、西にある。」ディスカバーウェストのホームページへのリンク(せめてもの罪滅ぼし)

東京メトロ副都心線 北参道駅で下車するための乗車位置(階段・エスカレーター・エレベーターに近い号車・ドアの位置)です。. 最後までお読みいただきありがとうございました。 前と後ろが切り離され、前だけが走ったりします(輸送量が少なくなるので), この東京の11号車のように 大垣ダッシュにも気合が入るというものです・・・?, これは、JR西日本の旅のキャンペーンのキャッチフレーズなのですが などです(8号車から9号車への通り抜けはできないので、1号車まで行かないといけない), 「トイレが心配な人は、とにかく1号車へ行きましょう!」 京阪神快速(けいはんしんかいそく)は、かつての鉄道省・日本国有鉄道(国鉄)および現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)が、京阪神地区の東海道本線・山陽本線で運行している快速・新快速、ならびにその前身にあたる急行電車(関西急電)を指す通称である。本稿では、これらすべてを歴史に重点を置いて記述する。, なお本項では、JR西日本による愛称路線名設定(1988年3月13日)以降の出来事については、北陸本線米原駅 - 長浜駅間と東海道本線米原駅 - 京都駅間については琵琶湖線、東海道本線京都駅 - 大阪駅間をJR京都線、東海道本線大阪駅 - 神戸駅間と山陽本線神戸駅 - 姫路駅間についてはJR神戸線で記述する。, 京都・大阪・神戸の関西3大都市を結ぶ東海道・山陽本線は、1934年の吹田駅 - 須磨駅間の電化により、電化前に運転されていた京阪神間区間運転の快速列車及び普通列車を継承して、「急行電車」と「緩行電車」(京阪神緩行線)が運行されるようになった[1]。この急行電車は大阪駅 - 神戸駅間を結ぶ電車であったが、1937年10月の京都駅 - 吹田駅間の電化により、運転区間が京都駅まで延伸された[2][3]。, 急行電車は太平洋戦争激化による戦時体制強化によって、1942年11月に一旦廃止されるが、戦後1949年4月に京都駅 - 大阪駅間で復活、6月には戦前同様神戸駅までの運転が再開された。1956年11月の米原駅 - 京都駅間の電化(東海道本線全線電化)までは京都駅–神戸駅間で運転されていたが、この米原駅までの電化と1958年の姫路駅までの電化によって運転区間が東西に拡大され、その後も電化区間の西進と客車普通列車の電車化によって運転区間が広がったことから、これまで担っていた京阪神緩行線との並走区間での速達列車としての役割に加え、中距離列車としての性格も帯びるようになった。この間の1957年9月には、「急行電車」の名称が運転区間の延長に伴って、既存の「急行列車」や「準急列車」との間で矛盾を生じたことから、名称を「快速電車」に変更した。その後現在に至るまで幾度か運転区間・運行形態の変更はあったが、基本的には、1964年の113系投入時点での運転区間(東端大垣駅–西端上郡駅・播州赤穂駅)の運行形態が踏襲され現在の快速の元となっていたが、大垣駅 - 米原駅の直通は2016年3月26日をもって廃止され現在に至っている。, 1970年10月には、京阪神間における更なる速達サービスによる需要喚起および流動創造を目的に、関西急電の再来ともいえる新快速が誕生した。, 2016年3月26日現在、東海道・山陽本線系統の快速・新快速は、西は上郡駅・赤穂線播州赤穂駅まで、東は米原駅まで、北は北陸本線敦賀駅(福井県)まで運転されている。, 「京阪神快速」の名称は、ほかの運行系統と記述を区別するときに用いられることがある[4]が、実際の旅客案内に用いられるものではない。, 東海道・山陽本線の京阪神地区では、草津駅 - 西明石駅間が複々線となっている。このうち、草津駅 - 新長田駅間は方向別複々線とし、線路の外側を外側線(列車線)と呼び、内側は内側線(電車線)と呼ばれている。, 草津駅 - 京都駅間では内外ともに最高速度130 km/hであるが、京都駅 - 西明石駅間は外側線が130 km/h、内側線が120 km/hになっている[5]。, 兵庫駅 - 新長田駅間で内側線が下り外側線を南側へ乗り越え、兵庫駅 - 西明石駅間は線路別複々線となっている。電車線(南側)は快速・普通が使用し、列車線(北側)は原則的に特急列車や貨物列車と新快速が使用しているが、朝ラッシュ時には、舞子駅・垂水駅・須磨駅を通過する快速も運転されている[6]。, 新快速は西明石駅 - 京都駅間では原則外側線・列車線を、草津駅 - 京都駅間では多くが内側線を走る。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 1号車だけではトイレの需要をまかないきれないので、もうひとつ別の箇所にトイレが設置されています。, 1号車に加えて ●名古屋近郊を走る新快速・特別快速電車 ・みやこ路快速は京都と奈良を結ぶjr奈良線の最速達列車。 ・京都、宇治、奈良を結び観光に便利 ・近鉄京都線の急行と競合している ・リニューアルされた221系で運行されている . また、福知山線及び片町線に直通する区間快速はJR京都線やJR神戸線内は各駅に停車するので、各駅停車に変更して運転している。, 日中以降は高槻駅 - 西明石駅間で快速運転、高槻駅 - 野洲駅・米原駅間と西明石駅 - 姫路駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。この時間帯の1時間の本数は下記の通りである。, 高槻駅・大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通と、加古川駅で新快速と接続する。野洲駅では米原方面の上りのみ新快速と接続し、朝晩には近江八幡駅(京都・大阪方面の下りのみ)・能登川駅(米原方面の上りのみ)でも緩急接続がある。また尼崎駅ではJR東西線 - JR宝塚線の快速列車と同じホームで接続する。大阪発着のJR宝塚線快速との接続が計られている列車もあるが朝ラッシュ時以外は同じホームでの接続にはならない。, 新快速は、敦賀駅 - 播州赤穂駅・上郡駅間で、北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由で運転されている。, 電化当初に投入された42系と「流電」で知られる52系の両形式とも、戦前の省線電車を代表する高速性能に優れた中長距離向け車両であり、戦後も80系・113系と、その当時を代表する国電の中長距離向け電車が登場初期に急電・快速に投入された。, 新快速は当初113系で運転を開始したが、約1年半で急行用の153系に置き換えられた。その後、国電としては極めて異例な地域特定車両として、117系が登場した。, 国鉄分割民営化後に登場した221系で、再び新快速・快速用の車両が共通化された。221系は現在新快速運用から退いているが、快速限定の223系6000番台を除き、後継の223系1000番台・ 2000番台・225系0番台・ 100番台は、新快速・快速共通で運用されている。, 快速・新快速ともに網干総合車両所所属の225系0番台・ 100番台、223系1000番台・ 2000番台が、快速はさらに221系および223系6000番台電車も使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている(10両・12両編成は米原駅 - 網干駅間のみ)。新快速と朝ラッシュ時は223系・225系使用の快速では130 km/h運転を行っている。, 京阪神地区の電化に際し、当初投入された42系は、急行・緩行の双方の運用に対応できる20 m2扉のクロスシート車で、高速性能に優れていた。電化後、当時としては画期的な流線型の52系を投入、翌1937年に投入された2編成は省線電車初の広窓を採用し、同年10月の京都駅までの電化区間延伸に際して増備された半流モハ43型の2編成とともに戦前の関西急電の主力となった。, 戦後1949年に復活した急電は、当初は42・52系を使用していたが、1950年8月に運用を開始した80系に置き換えられ、同年10月には横須賀・阪和の各線に転出した。80系はその後も増発や電化区間の拡大に際して増備を重ね、1950年代から1960年代前半にかけて急電・快速の主力として運用された。しかし、比較的短区間の利用が増加したことや、新幹線乗り換え客(大阪 - 新大阪間)の流動円滑化のため、1964年から113系への置き換えを開始し、1968年9月に快速用80系の置き換えを完了したが、1972年3月まで、長距離客車普通列車を電車化した、岡山・広島方面から大阪駅まで乗り入れる80系の運用[14]が残存していた[15]。113系は1981年まで増備され、1992年に転入してきた115系とともに2004年まで、40年の長きにわたって快速運用に充当された。, 153系[16]は、東海道本線東京・名古屋地区の同形式がそうであったように、1972年3月までは急行・準急の間合い運用で快速運用に充当された。京阪神快速では、急行「はりま」[17]と、「鷲羽」・「とも」[18]の間合い運用で朝夕ラッシュ時の快速を中心に運用された。この運用は、宮原電車区所属の153系が充当されたが、「はりま」の運用によっては、田町電車区の153系が充当されることもあった[19]。1972年3月に山陽新幹線が岡山駅まで開通し、それに伴うダイヤ改正で大阪・新大阪・京都各駅発着の山陽本線の昼行電車急行が激減したことから、153系の快速運用は新快速の間合い運用に変更となり、後継の117系にも継承された。なお、変わった例として、1964年〜1965年に大垣電車区所属の準急「東海」用の12両編成が京都駅までの普通運用に充当[20]されて、京阪神快速の運転区間に乗り入れていたことがある。, 関西地方で最初に開業した鉄道は旧日本国有鉄道(国鉄・官営鉄道)の路線で、1874年に大阪駅 - 神戸駅間、1877年に京都駅 - 大阪駅間の路線をそれぞれ開業させた。, 1905年4月に阪神が大阪出入橋駅 - 神戸三宮駅間(現:阪神本線)、1910年4月に京阪が京都五条駅 - 大阪天満橋駅間の路線(現:京阪本線)を開業させて以来、大阪 - 神戸間の阪急神戸線(梅田駅 - 三宮駅)、京都 - 大阪間で新京阪鉄道(現:阪急京都線)(西院駅 - 天神橋駅)、兵庫駅 - 姫路駅間においては山陽電鉄本線(兵庫駅 - 山陽姫路駅)と、競合する並行私鉄が複数誕生し、市街地への近さ、短い駅間隔、短編成ながら頻繁な運転を売り物とした。, 当時の国有鉄道は普通列車といえども中長距離の利用者を主な対象としていて運行頻度も少なく、京阪神間といった短距離の輸送についてはあまり考慮されていなかったが、人口および流動の増加に伴い1930年に阪神間・京阪間などで蒸気機関車牽引の快速列車を設定した。1934年7月20日には吹田駅 - 須磨駅で電気運転が開始され、普通電車のほかに、大阪駅 - 神戸駅間に三ノ宮駅のみ停車で28分運転(普通は38分)を行う「急行電車」(いわゆる関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車)を設定した[26]。車両は普通電車とともに42系を新製して投入した。編成は4両、(大阪側)モハ43/42-クハ58-サロハ46-モハ43/42(神戸側)が所定であり、30分間隔で29往復が設定され、2編成が2分折り返しで交互に走った[27]。なおこの時点では阪神間の旅客線は尼崎駅 - 東灘駅間が複々線となって外側2線が貨物や普通電車が走行する緩行線となっていたので[28]普通電車の追い越しは、上下とも西ノ宮駅 - 芦屋駅間で、外側線を走っている普通を内側線の急行が追い抜いていた[29]。1936年3月18日には都市化に伴い阪神が元町駅へと延長、それに呼応して4月1日から急行が元町駅にも停車することとなった[30]。, 1936年5月13日には、急行用の車両として当時としては斬新な流線型の車体デザインを採用した52系(流電)1編成4両を登場させた[31]。その後1937年10月10日に京都駅までの電気運転が開始されると運転区間を京都駅 - 神戸駅間に拡大した[26]。当時の急行の京都駅 - 神戸駅間の中間停車駅は、大阪・三ノ宮・元町の3駅だけであり、京都駅 - 大阪駅間を34分、大阪駅 - 三ノ宮駅間を25分で結び同区間は当時超特急とも呼ばれた特急列車燕より所定時間が7~9分も速く設定されていた[32]。, 京都駅までの延長に伴い、52系の2編成8両を増備(第二次流電)したが、流線型は利用客からは好評だったものの、乗務員扉の省略や車体裾のスカートなどが運用・整備上不便だったため、先頭車のみ通常の貫通型に変更してさらに2編成8両が増備され(第三次流電)、合計5編成となった。またこれにより42系は急行の予備と普通として使用されるようになった[33]。戦後の急行電車に用いられた80系や、後に新快速用車両として登場した117系で採用された茶色とクリーム色の塗装、221系の帯色、223系1000・2000番台や225系0・100番台の側面窓周辺の茶色は、急行時代の52系の塗装を意識したものであり、大阪鉄道管理局やJR西日本が関西急電を新快速の偉大な前身と位置付け、関西急電と新快速の歴史の連続性を明示する役割も果たしている。, その後、1942年11月13日限りで、太平洋戦争による戦時体制強化に伴い急行の運転がいったん廃止された[34]。52系は各駅停車に転用され、外側の乗務員室扉がないことから付随車代用として編成の中間に組み込まれた。1944年には3扉化が計画されながらも2扉で残った。, 戦後になって、1949年4月10日に京都駅 - 大阪駅間で急行が運転再開され[26]、6月1日に京都駅 - 神戸駅間に延長[26]、このとき52系による急行が復活した[35]。, 1950年8月には、急行の置き換え用に80系がクハ・モハ各14両(2M2Tで7編成)投入された。塗色は上記の通り茶色とクリーム色である。52系の戦後の関西急電での活躍は短く、阪和線特急電車に転用された。80系は1952年8月からは付随車を増結して2M3Tの5両編成で運転された[36]。, 1956年11月に米原駅 - 京都駅間が電化され、東海道本線の全線電化が完成した。これに伴い、草津・米原方面からの電車が京都駅以西の従来の急行電車の延長の形で走ることとなり、現在に至る京阪神の速達列車と中距離電車の一体化がこのときに始まった。ただし客車普通列車が大阪駅・三ノ宮駅・神戸駅と停車するのに対し、急行電車は従前のとおり元町駅にも停車した。, 1957年9月25日に茨木駅 - 大阪駅間の旅客用複々線が完成した。10月1日から80系電車による準急列車が名古屋駅 - 大阪駅間に設定されることになったが、これにより料金が必要な準急と無料の急行電車が混在するのはおかしいという理由から、9月25日に「急行電車」を「快速電車」に名称を変更した[37]。また同時に快速が高槻駅の構内改良(高槻電車区開設)に伴い同駅にも停車するようになるとともに、阪神間では内側線を走る一般の快速は芦屋駅、外側線を走る一部の快速は西ノ宮駅(現:西宮駅)に停車させることとなった。また80系が東海道線を通して走るようになったことにより、塗色統一の話が持ち上がり、湘南色に統一することとなって、9月11日に最初の塗色変更車が出場した[37]。なお、1957年 - 1958年に準急新設と姫路駅までの電化に伴って登場した80系電車(300番台車)は、最初から湘南色の塗装で新製されている。, その後、1958年に姫路駅までの電化が完成したことによって、一部の快速が神戸駅以西に進出して姫路駅まで乗り入れ、兵庫駅・須磨駅・明石駅 - 姫路駅間の各駅の順に停車(一部の快速は須磨駅と西明石駅を通過。また朝上り・夕方下りの一部列車は明石駅 - 姫路駅間を途中加古川駅のみ停車の快速運転を実施)するようになって、西側でも中距離電車との一体化が始まった。1961年には、一等車(のちのグリーン車)を連結するようになった。, 1964年には、宮原区に113系が51両新製配置され、9月から7両編成(TcMM'T'cMM'T'c)で一部の80系を置き換えて快速として運転が開始された[38]。10月1日には新幹線開業に伴い、新設の新大阪駅が停車駅に追加された[26]。, 1966年10月にはサロ110の配置により二等車連結列車を113系に置き換え、サロ連結の基本編成を高槻電車区・宮原電車区は8両編成とし、サロ不連結の明石電車区車は基本7両編成となった。各電車区とも4両の付属編成をもち、7両 - 12両で運転されていた。1968年10月ダイヤ改正(よんさんとう)で快速の運転間隔を20分から15分に変更し、神戸駅発着系統は廃止され、西側は姫路方面と西明石駅発着の交互で運転されるようになった。なお、高槻電車区所属の80系は同ダイヤ改正を機に運用を離脱して全車転出した[37][39]が、岡山・広島方面から乗り入れる80系がダイヤ改正後も快速として、1972年3月ダイヤ改正(よんななさん)まで残存していた[40]。1970年3月には日本万国博覧会(大阪万博)開催に伴い、横須賀線から横須賀色(スカ色)113系が転入して輸送に用いられ、開催期間中は茨木駅に臨時停車していたが、開催終了後も常時停車となった。, 1970年10月の大阪万博終了直後、更なる速達サービス提供のため、「新快速」が初めて設定された。当初の運転区間は京都駅 - 西明石駅間で、新幹線停車駅である新大阪駅を通過し、途中停車駅は大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。所要時間は京都駅 - 大阪駅間が最速32分、京都駅 - 西明石駅が最速1時間19分、運転本数は日中の毎時1本の6往復のみであった。新快速は、当初の毎時1本体制から、車両、ダイヤともに大きな発展を遂げることになる(従来の快速の動きについては後述する)。, 1971年4月26日に運転区間を草津駅へと延長した。京都駅 - 草津駅間の途中停車駅は、大津駅と石山駅であった。この当時は横須賀色の113系を使用していた。これは上述の万博輸送のために横須賀線から転入した車両で、関西では見慣れない色だったため識別には都合が良かったが、のちに湘南色に変更された車が多く、113系末期は混色での運転が多かった。, 1972年3月15日には山陽新幹線の岡山駅までの延伸開業により余剰となった急行形電車の153系(いわゆる「東海形」)を投入[41]し、日中京都駅 - 大阪駅 - 明石駅間で1時間あたり4本に増発した[26]。この時新快速に転用された153系は「新快速色」と呼ばれる白地に青帯の塗装[42]に変更し、「ブルーライナー」の車両愛称を付与した。新快速の運行時間外などは快速としても運用され、稀に湘南色との混色編成などもあった。, 新快速は15分間隔のパターンダイヤで設定され、急行形車両の使用により最高速度を110 km/hに引き上げたことで大阪駅 - 京都駅間を3分短縮し29分運転とした。両駅で1分停車するため、大阪駅と京都駅の出発時刻が揃えられており、宣伝では、時刻表不要の高頻度と時刻のわかりやすさが強調された。京都駅および大阪駅の駅舎壁面上部に時計を形どり「29分間」を強調した広告がこの頃存在した。ただし、当時の幹線では保守間合いと呼ばれる列車の運転休止時間帯があり、日によっては運転間隔は一定でなかった。当時は草津駅 - 西明石駅間および京都駅 - 姫路駅間の2系統とその区間運転の列車があり、姫路駅発着の列車は西明石駅を通過していた。, 当時の特急「雷鳥」は、大阪駅を毎時0分に新快速と同時発車していた。しかし「雷鳥」は新快速よりも大阪駅 - 京都駅間の余裕時分を多く取っていた[43]。そのため、ともに新大阪駅を通過した後に新快速が「雷鳥」を抜き去って行く光景が、北陸方面に向かう「雷鳥」が走る度に繰り広げられた[44]。「雷鳥」が走る列車線・外側線のダイヤを作成・管理していた国鉄本社は、これではあまりにみっともないということで、新快速のダイヤを管理する大阪鉄道管理局に、新快速のダイヤをずらすように指示したものの、大阪管理局はパターンダイヤを変更することは利用者にとって不便になると拒否した。やむを得ず本社側が折れ、「雷鳥」の新大阪駅停車開始に合わせてダイヤを5分ずらすことにした。, 1973年10月1日の改正で姫路駅発着列車が1時間あたり2本に増発され、1974年7月には湖西線が開業し、1本が堅田駅(観光シーズンは近江今津駅)まで乗り入れるようになった[26]。1975年9月1日から新快速及び快速の京都-西明石間で車内禁煙区間が設定され車両にステッカーが貼られた。この区間外では喫煙が可能であったため座席横の灰皿は残された。1978年10月2日のダイヤ改正では神戸駅が停車駅に追加された。, 1980年1月22日には117系が営業運転を開始した[45]。153系の新快速は元有料急行用車両とはいえボックス型の固定シートであったのに対し、京阪間を運行する阪急(6300系)、京阪(3000系)ともに転換クロスシートを備えた特急専用車を使用していた。これら私鉄特急に触発され、運行区間延長への対応と需要喚起策を兼ねて、料金不要車両ながら転換クロスシートを持ち、シートに枕カバーが付き、蛍光灯にもカバーが付く、極端なまでの「標準化」を推進する当時の国鉄としては破格の車両が誕生した。導入にあたって「シティライナー」の車両愛称を付与され、ヘッドマークの公募も行われた。この117系は戦前の関西急電の生まれ変わりとも言えるクリーム色と茶色をまとって登場し、この茶色はのちの新快速車両にも受け継がれることになる。117系の評判は良く、153系からの置き換えが急ピッチで行われ、同年7月の時点で6両編成21本が出揃い、7月9日からすべてが117系となった[46]。, この時期、国鉄の普通列車において表定速度が70 km/h以上の列車は44本あり、その全てが新快速であった。その中で、京都発大阪行きの新快速「3681M」は京都駅 → 大阪駅間を30分で走行し、ほかの新快速が29分で走っていたことを考えればやや遅い列車であったものの、表定速度は1980年当時の普通列車の中では最速となる85.6 km/hであった[47]。これは、当時の国鉄在来線の全列車の中でも2番目に速いもので、当時最も速い特急であった「加越」5号(表定速度86.1 km/h)以外のすべての特急よりも速かった[48][49][50]。, 1985年3月14日から、朝夕に各駅停車ながら彦根駅発着列車の運行を開始し、日中の草津駅発着列車が1時間あたり2本に増発された。同時に新大阪駅が停車駅に追加された。高槻駅 - 大阪駅間の最高速度が100 km/hから110 km/hに引き上げられた効果で、新大阪駅に追加停車しても、京都駅 - 大阪駅間を29分で運転できるようになった。これまで新幹線が停車する新大阪駅の通過は、新幹線利用の遠方客を中心に誤乗を招いていたが、パターンダイヤを維持するための新大阪駅通過が解消されることとなった。またそれまで普通・快速と同じ内側線を走っていた新快速のうち、朝夕1往復ずつが外側線を走るようになった[51]。, 1986年11月1日の国鉄最後のダイヤ改正からは山科駅に新たに停車し、西明石駅にも全列車が停車するようになり、西側は全列車が姫路駅発着となり[52]、東側も彦根駅と近江舞子駅(湖西線内は各駅停車に変更)まで1時間に1本ずつ延長されるとともに[52]、草津駅 - 彦根駅間で各駅停車であった新快速の停車駅が削減され、現在の停車パターンによる速達運転が開始された。また国鉄分割民営化を控えて、従来国鉄本社直轄だった外側線と列車線が大阪鉄道管理局に開放され、草津駅 - 西明石駅間の複々線区間で新快速はそれまでの内側線・電車線から外側線・列車線走行に変更となり[52]、大阪駅 - 京都駅間と大阪駅 - 神戸駅間でそれぞれ3 - 5分程の時間短縮が図られた[52]。のちに大阪駅 - 新大阪駅間と京都駅 - 草津駅間は平日朝ラッシュ時以外内側線を走行するようになった。またそれまで大阪駅で快速が新快速を待避していたが[52]、これにあわせて快速・新快速と普通の緩急接続に変更された[51]。側窓を下降式としたマイナーチェンジ版の117系100番台が6両×3編成増備される[52]。この時点においても朝夕ラッシュ時には新快速の設定はなく(姫路駅発着は少ないながらも設定されていた)、外側線を走行する快速がラッシュ時の最速列車であった。また国鉄の鉄道管理局の境界が彦根駅 - 米原駅間であり、新快速の東端は彦根駅発着であった。, 1970年10月1日に新快速が設定されて以後、快速に関しては17年後の民営化に至るまで基本的に大きな変更なく113系が使用され続けた。この時点の京都駅 - 西明石駅間での停車駅は原則として、高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅・芦屋駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・須磨駅・明石駅であった。外側線を走る一部の快速は上述の通り西ノ宮駅に停車し須磨駅・西明石駅を通過した。また、通勤時間帯には新快速は運行されていなかったため、速達列車の主流は113系を用いた快速であり、夕方ラッシュ時では内側線と外側線を利用した大阪駅同時刻発車の下り快速の設定もあった。その1本は宮原電車区所属の大阪始発下り最長走破となっていた12両編成グリーン車付岡山駅行き快速で、途中駅での編成開放もされず全区間12両で運用されており、これは宇野線への新幹線接続用快速のグリーン車連結のために関西から113系を送り込むため運転されていた。この列車は宇野線快速が岡山電車区の115系に置き換えられ、さらに京阪神快速のグリーン車が廃止された後も1988年3月ダイヤ改正まで運転され、担当も網干電車区に替わっていたが、上道駅や高島駅の開業後は両駅のホーム有効長の関係上網干駅で4両を切り離していた。, 1972年3月15日の改正では、東側で草津駅まで1時間あたり4本に増発された。同時に垂水駅にも電車線の快速が停車するようになり、列車線の快速停車駅に西明石駅が追加された。同年4月20日には六甲道駅に内側線を運転する快速が停車するようになった。, 1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたが、それに先立って8月末から時刻表からグリーン車のマークが消え、連結されていた車両は普通車として開放され、編成から抜かれたグリーン車は首都圏へ転出した。末期までサロには二等車を示す薄緑の帯が示されており、この時代を持って実質的に関西地区での普通列車へのグリーン車付属がなくなる事になった。これにより基本編成が7両に統一され最大編成でも11両となったが、1981年10月には高槻電車区の編成にサハ111が連結され基本編成が再び8両に戻された。, 1985年3月14日の改正で日中の快速は高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯における普通(各駅停車)の同区間の運転はなくなった(1997年9月1日に復活)。, 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)が発足した。発足時は国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日)時のダイヤをそのまま継承した。, JR発足後は朝ラッシュ時にも新快速が運転されるようになった。1989年には221系が登場し、その大きな窓と明るい車内が新生JRの格好のPR材料となった。JR他社が新設計の特急車両をフラッグシップとする中、国鉄時代に実現しなかった関西地区向け211系の分も合わせて一挙に投入された221系は、すぐに京阪神エリアの顔となり、通勤輸送の改善や120 km/h運転の開始により、今日のアーバンネットワークの基礎を築きあげた。私鉄沿線よりも開発余地の大きかった国鉄・JR沿線の発展に伴い、当初新快速用が6両、快速用は4両同士連結の8両編成であった221系も、8両編成が主体となっていき、最長12両編成の列車も徐々に増加していった。, 1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、各鉄道が大きな被害を受け、長期運休を余儀なくされた。その中から、阪神間でもっとも早く開通したのがJRであった。貨物輸送も担う幹線であり、復旧が急がれ、またJR各社の応援を得られたことも大きかった。, 復旧後のJR神戸線は、不通区間のあった他私鉄からの一時的な転移客に対応して、通勤時間帯を中心に増発・増結が行われた。特に輸送力が求められた新快速は予備車の活用や先代117系の投入により増発、その後223系1000番台を急遽追加投入して輸送力確保に努めた。被害の大きかった阪神間や神戸市内での沿線人口が減り、明石市方面への転居者が多かったこともJRに有利に働き、先述の通勤時間帯に増発された列車は、更なる利用増加を見据えて運転が継続された。, さらに、京都駅ビルの集客力強化に成功したほか、京都を越えて直通運転する琵琶湖線沿線、特に草津市・守山市を中心とする地域では、新快速による時間短縮効果が大阪・京都への通勤客を中心とする人口増を呼ぶとともに、京都市内からの大学の新キャンパス設置や滋賀県内への企業誘致など、新たな需要の拡大を生んでいる。, 阪神大震災後に乗客が急増したJR神戸線の増発用として急遽製作された223系1000番台は、扉間の座席を1列減らしてドア周囲を広く取ると同時に、その空間を利用した補助席を新たに設け、ラッシュ時の混雑緩和と日中時間帯の着席サービスの両立を図った。朝夕時間帯の新快速の増発は、130 km/h運転に対応する223系の増備が進むにつれて、朝ラッシュ時の快速も223系化されて足並みが揃えられ、神戸駅 → 大阪駅間で快速が先着になるなど、ダイヤにも手が加えられている。, 2005年4月25日にJR福知山線脱線事故が発生、余裕のないダイヤが一因であるとの批判を浴びた。翌2006年3月18日のダイヤ改正では余裕時間の見直しが行われ、京都・大阪・三ノ宮駅での停車時間を約2分とし、余裕を持った折り返し運用などが実施され、京都駅 - 大阪駅間が27分10秒から28分20秒に、大阪駅 - 三ノ宮駅間では19分50秒から20分50秒に、それぞれ改正前より約1分の所要時間増となった[53]。また、主要駅に設置されていた新快速の宣伝看板も、所要時間の延長を理由に撤去されるようになった[54]。なお、新快速と朝の一部の快速の最高130 km/h運転は継続しており、車体の強度を高めるなどの安全対策や全車両0.5Mとすることなどの製造コスト削減を図った223系の後継225系が2010年12月から運用が開始されている。, 運転系統 : 東海道線 - 横須賀線 - 湘南新宿ライン - 上野東京ライン - 京浜東北線 - 山手線 - 相鉄・JR直通線貨物線・支線 : 東海道貨物線 - 品鶴線 - 高島線, 静岡地区 - 名古屋地区貨物線・支線 : 名古屋港線 - 稲沢線 - 美濃赤坂線 - 沼津港線(廃線) - 西名古屋港線(名臨高に移管) - 南方貨物線(未成線), 琵琶湖線 - JR京都線 - JR神戸線 / 京阪神快速 - 京阪神緩行線貨物線 : 北方貨物線 - 梅田貨物線 - 大阪貨物ターミナル線 - 神戸臨港線(廃線), 旧東海道本線 : 根岸線(横浜駅 - 桜木町駅) - 御殿場線(全線) - 奈良線(稲荷駅 - 京都駅) - 清水港線(清水駅 - 三保駅)新幹線 : 東海道新幹線 - 山陽新幹線(新大阪駅 - 新神戸駅), 琵琶湖線 - JR京都線 - JR神戸線(北陸本線(米原 - 長浜)・東海道本線(米原 - 神戸)・山陽本線(神戸 - 姫路))- 山陽本線(姫路 - 上郡)- 赤穂線(相生 - 播州赤穂) - 湖西線 - 草津線 - 奈良線 - 嵯峨野線(山陰本線 京都 - 園部) - おおさか東線 - JR宝塚線(福知山線) - JR東西線 - 学研都市線(片町線) - 大阪環状線 - JRゆめ咲線(桜島線) - 大和路線(関西本線 JR難波 - 加茂) - 阪和線 - 関西空港線 - 和歌山線 - 万葉まほろば線(桜井線) - 関西本線(加茂 - 柘植) - 和田岬線 - 羽衣線 - 紀勢本線(和歌山 - 和歌山市), 新快速 - 大和路快速 - 関空快速・紀州路快速 - 丹波路快速 - はるか - びわこエクスプレス - らくラクはりま, 阪神間及び京阪間の電化時に、それまで中間の各駅に停車していた客車普通列車は、その役目を京阪神緩行線に譲って三ノ宮駅–大阪駅間及び大阪駅–京都駅間を無停車扱いとしたことから、京阪神間ではこれらの列車も急電・快速の補完的な役割を担うようになった。ただし、客車普通列車は、急電・快速の停車駅である, 須磨駅–明石駅間の電化時には、客車普通列車は神戸駅–明石駅間で、兵庫駅・須磨駅以外は通過扱いとした。, 「京阪神快速電車の主力 223」『鉄道ジャーナル』2008年9月号、p.24-26、寺本光照「関西圏サロものがたり」『鉄道ピクトリアル』2008年5月号 No.803、p.50-59、『鉄道ファン』2010年7月号、p.71など。, 草津線からの直通は京都駅から快速運転、湖西線からの直通は高槻駅から快速運転を行う。, その後は、1977年まで名古屋駅–京都駅間で季節運転の快速「近江路」と、1978年まで西明石駅–岡山駅間の普通で京阪神快速の運転区間に乗り入れ。, 開始時期は資料の文面から判明できなかったが、『関西国電50年』p225の1962年6月10日時点の宮原電車区所属の153系不定期急行運用表で、出入庫を兼ねて大阪駅–姫路駅間の快速運用に充当されていることが分かる。また、『関西国電略年誌』p70の1963年4月20日時点の快速運用一覧に「10両(153系)1本」とあることから、少なくとも1962年以降に153系の快速運用があったことが分かる。, 左記の期間は、快速としての運転期間。京阪神快速の運転区間への乗り入れは、上記の80系の代替で1978年以降西明石駅以西での運用があった。また、1989年の『, 『鉄道ファン 2003年5月号』 交友社 「42系姉妹の一代記 1」p.100。『鉄道ファン 2009年10月号』 交友社 「新快速ものがたり 1」p.101。ただし普通と同じ2両編成(クロハ59-モハ43)の急行の走行写真も同p.104にある。沢柳健一 『旧型国電50年I』p.95も参照。, 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌3 新性能直流電車 上』 ネコ・パブリッシング、2007年、p.78, なお、所轄の大阪鉄道管理局では、『関西国電略年誌』p95に「大阪快速は全部113系化完了した」とあるように、1968年9月末で京阪神快速の80系から113系への置き換えを完了としている。, 当時の「雷鳥」の大阪駅 - 京都駅間の所要時間は30分 - 33分で、新快速よりも長く、当時の新快速の最高速度が110 km/h(昭和47年3月以降、ただし, 所要時間だけでなく、「雷鳥」が新大阪駅に停車し、新快速が新大阪駅を通過することにもよる。, 京都駅 → 大阪駅間を29分で走行した場合、同区間における表定速度は88.6 km/hとなるが、他の列車では前後の区間も含まれるために3681Mよりも表定速度は低くなる。, 1978年10月のダイヤ改正で、それまで86 km/h - 89 km/h台であった, なお国鉄の歴代急行電車の最速は同じく最高速度110 km/hの711系電車を使用した「さちかぜ」(1971年)の85.5 km/hである。, その後、現在まで新快速が特急に抜かれる場面は近江今津駅・姫路駅での分割併合に伴う長時間停車や京都駅以東の複々線区間(待避に伴う長時間停車はない)でのみ見ることができる。, 下り列車でいうと、普通が三ノ宮駅まで1分短縮するため、快速が芦屋駅から外側線を走行することで、同駅で接続する普通と快速が同時発車できるようにし、その後東灘信号場で内側線に戻った(『鉄道ジャーナル』No.405 p.42)。, 時刻表(ダイヤ)上では存在するが、このような事例は他にも、主に北陸本線 - 網干駅以西の山陽本線、さらには赤穂線間を直通運転する系統を中心にいくつか存在する。, 時刻表上1本の列車としてはつながっているものの、敦賀駅からの車両が播州赤穂駅まで直通せずに姫路駅または網干駅までとなる理由は、相生駅 - 米原駅(あるいは, 両駅とも、上りは普通が発車してほどなく新快速が到着し、下りは新快速が発車した数分後に普通が到着するため、一方的な接続ながら一定の速達性は維持されている。, 平成10年春ダイヤ改正について アーバンネットワーク(琵琶湖線、JR京都・神戸線), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=京阪神快速&oldid=80362423, 快速(M):平日朝ラッシュ時まで運転、快速(K):土休日朝時間帯まで運転、快速(T):日中以降に運転, 近江舞子発大阪行きの快速は平日のみ運転。琵琶湖線と同様に各駅停車区間では普通と案内される。敦賀駅発着の快速は大阪・姫路方面行きは山科駅から、大阪発は京都駅まで新快速として運転。敦賀駅 - 近江舞子駅間の各駅停車区間でも快速と案内される, 快速(M):平日朝ラッシュ時まで運転、快速(K):土休日朝のみ運転、快速(T):日中以降に運転, 快速(M)・快速(K)・快速(T)のいずれにも須磨駅・垂水駅・舞子駅の3駅に停車する列車と通過する列車がある。3駅通過の列車は番号が5700番台になっている。, 3月1日:加古川駅の高架工事の完成に伴って同駅で上下ともに新快速と普通の緩急接続を開始。日中にも, 10月1日:同年4月に発生したJR福知山線脱線事故を受けて、所要時間短縮のために切り詰められていた余裕時分の見直しが行われた。ダイヤ上大阪駅での停車時間が1分未満の列車も多く、定時運行率は6割程度にまで落ち込んでいたことから実施された。, 3月26日:昼間時間帯の大阪駅を発車する新快速と快速を、15分間隔のちょうど中間に当たる7.5分間隔で交互に発車する形に(同様に、20分間隔の運転となる時間帯は、大阪駅から10分間隔で交互に発車するダイヤに)して快速の運転時刻が若干変化したことと、, 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌 3 新性能直流電車 上』 ネコ・パブリッシング、2007年。, 河昭一郎「関西を走った80系電車の記録から —快速電車を中心に— 」2006年3月号 No.774 p.36 - 39, 浦原利穂「42系姉妹の一代記 1」2003年5月号 No.505 p.96 - 104, 寺本光照「新快速ものがたり 1」2009年10月号 No.582 p.98 - 105.